[女子バスケ]なぜ長岡萌映子は移籍を繰り返すのか? ウィンターカップ決勝50得点“生意気な選手”からの進化

富士通レッドウェーブ、トヨタ自動車アンテロープスを経て、昨年オフにENEOSサンフラワーズへ移籍。2022-2023 Wリーグでは、古巣トヨタを破って見事優勝を果たした。他競技と比べて選手の移籍が活発ではないともいわれる女子バスケットボール界において、長岡萌映子の存在は特別に映る。なぜ彼女はつらい別れを乗り越え、移籍を繰り返したのか? 史上初めてWリーグ強豪3クラブを渡り歩いた“モエコ”がその胸中を語った。

(インタビュー・構成=守本和宏、写真提供=ENEOSサンフラワーズ)

ENEOS王座奪還の立役者、長岡萌映子が人知れず抱えていた苦悩

2022-2023シーズンのWリーグ。優勝を果たしたのは3年ぶりの王座奪還となる、ENEOSサンフラワーズだった。

2009年から2020年までリーグ11連覇。その後、トヨタ自動車アンテロープスに2年連続で覇権を奪われ、“王座奪還”を命題に挑んだシーズン。そのトヨタ自動車とのファイナルでは、ダブルオーバータイムの死闘の末、優勝を手繰り寄せた。最大級のプレッシャーから解放された、エース渡嘉敷来夢が「泣くキャラじゃないんですけど、涙が止まらない。2~3年勝てなくて申し訳なかったし、しんどかった」と涙を見せたことに、その苦悩が見受けられる。

当然、みんなバスケが好きで選手になったわけだが、トップリーグの、とりわけ王者ENEOSでプレーするのは、“使命を背負う”ことでもある。優勝しなければならない、2位では意味がない。その重すぎる責任は、プレーする者にしかわからない感情だ。今シーズン、トヨタ自動車からENEOSに移籍し、優勝のキーマンとなった長岡萌映子(モエコ)にとっても、それは同じだった。

「こういう形で、個人としては3連覇の称号を得られて、本当にうれしいし、良かったです。それと同時に、3年連続優勝は、自分しか背負っていないことだった。他のみんなは“王座奪還”という特別な思いがあって、それは偉大なことだからこそ、本当の意味で私は共有できなかった。だから、自分の気持ちを共有できずに自分で踏ん張るしかなかったのは、すごく大変だったなと思います」

それを聞いて思い出したのだ。思えば、長岡萌映子と出会ってからずっと、彼女の素直な性格が好きだったことを。

Wリーグ参加後から毎年、シーズン終わりにモエコのコメントを聞くのが好きだった。高校バスケ界最大のイベント「ウィンターカップ」決勝で50得点。史上2番目、17歳7カ月の若さで日本代表入り。“50年に一度の才能”といわれた彼女は、高校卒業後、富士通レッドウェーブへ加入。町田瑠唯など仲間に恵まれながら、優勝に手の届かなった彼女は、涙を見せつつ、一年の感想を率直な言葉で語った。「(いつか優勝できると)仲間を信じ、自分を信じて頑張りたい」など、何度も素直な声を聞いた。

だからこそ、知りたかったのだ。なぜ、富士通でNO.1スコアラーだった長岡萌映子は、トヨタ自動車移籍後に自分中心から他者を生かすプレースタイルに変わったのか。なぜ、タイトルを確保したのに、昨シーズン終了後、ENEOSへ移籍したのか。史上初めてWリーグ強豪3クラブを渡り歩いた長岡萌映子。彼女がたどった激動のバスケ人生、その真意を聞きたいと、思ったのだ。

皇后杯10連覇以上に重要だった証明「自分が来て弱くなったわけじゃない」

長岡萌映子のキャリアを振り返る前に、彼女のENEOSでの現在地を知ってほしい。それは彼女が成長の末にたどり着いた、一つの答えである。

トヨタ自動車で2度の優勝を経験した彼女は、昨シーズンのファイナル終了後に退団を発表。ENEOS移籍を発表した。(加入当時)Wリーグ23年中、16回の優勝。常勝の名を欲しいままにしていたENEOSだが、トヨタ自動車に覇権を奪われ、王座から陥落。チームは、吉田亜沙美など擁して築いた一時代から世代交代。所属13年目のエース渡嘉敷来夢と若手をミックスした、新チーム作りを進める最中にあった。

そんなチームにとって、3番(スモールフォワード)・4番(パワーフォワード)、時に5番(センター)もこなせる長岡萌映子は、的確な補強に思えた。しかし昨年10月、シーズン開幕から4戦でENEOSは1勝3敗。スタートダッシュに失敗する。モエコが「私が来て弱くならないか心配だったので『マズイ』と思いました」と危惧するのも仕方なかった。

しかし、徐々に意思疎通が図れるようになると、プレーも安定。12月の皇后杯(オールジャパン)では、モエコと渡嘉敷がインサイドのハイ&ローで見事な連携を展開し、大会10連覇を達成する。モエコにとっては、初の皇后杯制覇だ。

「皇后杯はファイナルで負けるイメージがあったから、タクさん(渡嘉敷来夢のコートネーム)にも、『ごめん、本当に勝ち方わからないから。ついていくだけだから、お願い』って話していました(笑)。でも、チームの身の入り方が違うなと感じたし、優勝の嬉しさ以上に、“自分が来て弱くなったわけじゃない”と証明できた気持ちのほうが強かったかな」

そして迎えたシーズン後半。上昇傾向のチーム、若手の星杏璃もブレイクしつつある中、モエコは自分の役割を、あくまでチームを支える存在だと位置づけていた。

「誰が見ても、193cmあるタクさん(渡嘉敷)がチームの中心なのは変わりない。その中で自分の役割は、タクさんがどれだけ気持ちよくプレーできるか支えること。彼女が守られたり、疲れたりしたときに、自分が体を張って、どこまで点を取れるかだと思っています」

その宣言通り、モエコはレギュラーシーズンでチーム内3位となる1試合平均10.40得点を記録。プレーオフでも平均10得点以上をキープし、チームを支え続けた。

そして何より、ディフェンスの粘り強さ、リバウンドでの貢献、欲しいところで決める1本など、存在感を示し続けた。結果的に、ENEOS優勝の最大のポイントとなったのは、ちょっとひいき目で見てモエコがいたからだと、個人的には思っている。

新天地でも自分らしさを発揮した。ただ、だからこそ疑問が残るのだ。モエコがENEOSに“移籍する必要があったのか”、その理由は明確じゃない。インサイドのバスケにこだわっていたわけでもないモエコが、ENEOSを選んだのはなぜか。そして、女子バスケ史上に残る才能、長岡萌映子のバスケットボールキャリアは、それで幸せだったのか。それを聞きたいと思ったのだ。

選手としても人間としても“生意気な選手”だった高校時代

長岡萌映子の伝説は、高校時代から始まる。2009年に入学した札幌山の手高校で、1年上の町田瑠唯らと高校3冠などを達成。2年時にはウィンターカップ決勝で50得点と、永遠に破られないかもしれない記録を打ち立てた。その輝かしい時代を、本人は「ただの生意気な選手だった」と振り返る。

――今振り返ると、高校時代の自分にはどんな印象を持ちますか?

長岡:本当に好き勝手やらせてもらっていたなと思います。今の自分があの時の私を見たら、ただの生意気な選手にしか見えないです(笑)

――その生意気さは、プレー面? それとも人間として?

長岡:プレーヤーとしても、人間としてもそうですね。当時の自分を承認するわけではないですが、日本代表にも選んでいただいて、ジュニア世代の全大会に行かせてもらった。いい経験をさせてもらって、生意気になっていた部分はたくさんあった。今なら、上島さん(上島正光コーチ)に怒られていた意味がすごくわかる(笑)。だからこそ、 あの時があってよかったなとは思います。

――ディフェンスをしない、とかですか?

長岡:ディフェンスも全然やってないですし、“得点だけ取っていればいい”みたいな選手に、今から考えれば見えるんですよね。

――でも実際、仕方ない面もあると思います。

長岡:その側面はあるから、若毛の至りだと思って大目に見ていただければと(笑)

富士通からの移籍「変わらなきゃいけないと思った」

2012年、大型新人として富士通入りを果たした長岡萌映子は、チームの柱として加入直後から活躍。初年度から平均得点15.41を記録し、新人王に輝いた。その後も毎年、得点を量産するが、タイトルには届かず。5シーズンを過ごし、Wリーグの移籍ルールが軟化されたタイミングで、トヨタ自動車へ電撃移籍。その過程を本人は「いろいろな人に迷惑をかけて申し訳なかった」と謝罪する。

――2012年に富士通に入り、2017年にトヨタ自動車へ移籍しました。当時は、チーム側の意向次第でほぼ移籍不可能な状態で、ルールが変わって1年目に権利を使う形になったと思います。

長岡:自分の中では、日本代表に入りたいのが、すごく大きかった。それを考えると、自分のポジションは4番じゃなかった。当時の富士通にいても、ずっと4番しかできなかった。自分が3番でプレーできるようにならないと、代表には選ばれない。修行のために出ようと思ったんです。自分勝手と言われるかもしれないけど、これは“私のキャリアだから”と考えて決断しました。

――仲間と離れるのはつらくなかったですか?

長岡:チームを思う気持ちもすごくありました。ルイさん(町田瑠唯)と離れるのもつらくて、「なんで」と言われました。でも、変わらなきゃいけないと思ったし、海外にも行きたかった。あのままだったら、行けなかったと思います。

――入団当初から海外移籍は意識していると言っていましたね。

長岡:当時からオフを使って、自分でアメリカにトレーニングに行っていました。でも契約面や使われ方からして、4番で180㎝ちょっとで活躍している選手は、昔だと海外には全くいなかった(長岡の身長は183㎝)。だから、4番だと海外に出られる可能性はないと、考えていたんです。

――実際、移籍ルール改定後に馬瓜エブリン選手や三好南穂選手などリーグのスター選手を獲得し、優勝を確実に狙う、トヨタ自動車のプランもチャレンジングで魅力的だったと思います。

長岡:そうですね。挑戦とか環境を変えるとか、いろいろなことを踏まえての移籍でした。その時は、本当に誰にも相談せず出ていってしまって、すごく失礼な出方をしてしまったと思っています。

――誰にも相談しなかった理由は?

長岡:絶対止められるってわかっていたから。今は移籍もメジャーですけど、以前はそうではなかった。絶対止められるから、誰にも相談できなかったし、その点でいろんな人に迷惑をかけてしまったのは、この場を借りておわびしたいです。

――新しいルールを作ってくれた先輩たちの頑張りも無駄にしたくなかった。そういった意見を聞きましたが、それは本当ですか?

長岡:当時、大神雄子さん(ENEOS黄金時代を築いたレジェンド。現トヨタ自動車ヘッドコーチ)と仲良くさせてもらっていて、海外で一緒にトレーニングしたり、よくお話する機会があったんです。そこで、大神さん自身が移籍ルールの件で上と話していて、こうなりそうだと聞いていた。それで彼女から、「モエコは海外に一人で来るようなチャレンジ精神や野望を持ってるから、意思を継いでほしい」と言ってくれたんですよね。それで挑戦してみたい、と(権利を)利用させてもらったのはあります。

自分の人生のため、キャリアのため、挑戦の道を選んだ長岡萌映子。そして、その先に待っていたのは、病気やメンタル面の不調など予想外の病気。多くの挫折。そして、かけがえのない経験と仲間からの愛だった。

<了>

[PROFILE]
長岡萌映子(ながおか・もえこ)
1993年12月29日生まれ、北海道出身。WリーグのENEOSサンフラワーズ所属。札幌山の手高校時代に3冠を達成。高校卒業後、2012年に富士通レッドウェーブへ入団し、加入1年目より主力として活躍。2017年にトヨタ自動車アンテロープスへ移籍し、2度のWリーグ制覇に貢献。2022年オフよりENEOSサンフラワーズでプレー。2022-2023 Wリーグ優勝。日本代表としても長年活躍しており、リオデジャネイロ五輪のベスト8、東京五輪の準優勝に貢献。

© 株式会社 REAL SPORTS