Jリーグ30周年で川淵さんが残したかったこと/六川亨の日本サッカー見聞録

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5月15日はJリーグ30周年を記念して様々なイベントが開催されたが、同じ日にYouTubeで村井満元チェアマンと川淵三郎さんの対談の4回目がオンエアされた。「Jリーグの井戸を掘った人たち」というタイトルの対談では、これまで浦和の元広報の佐藤さんや、ヤマザキビスケット社の飯島社長、鹿島の元スカウト部長の平野さんら7人が登場した。そして連載企画のラストを飾ったのがJリーグ初代チェアマンの川淵さんだった。

対談は、当初はvol1とvol2で終了する予定だったが、川淵さんから「延長戦」の申し入れがあり、vol3とvol4まで製作することになった。その大きな理由は、川淵さんが「Jリーグの危機」を後世に残したいという思いが強かったからだ。

「Jリーグの危機」と聞くと、多くのファンは98年に横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併された出来事を思い浮かべるだろう。しかしvol4最後の登場となったのは、その4年前に消滅の危機に陥った清水エスパルスだった。清水は特定の親会社(母体チーム)を持たない、地元企業117社と約1600人の一般市民の持ち株会による、文字通り「市民のクラブ」としてスタートした。

選手も長谷川健太、堀池巧、大榎克己の清水東三羽がらすをはじめ、澤登正朗、アデミール・サントスの東海大一(現静岡翔洋高)勢、青嶋文明、真田雅則の清水商(現清水桜ヶ丘高)勢、そして三浦泰年と向島健の静岡学園勢と地元出身者が多く、まさにJリーグが理想としたクラブでもあった。

ところが日本のバブルが弾けた94年、清水の運営会社の社長で、筆頭株主のテレビ静岡の社長でもあった戸塚氏が本社ビルを超高層のタワービルにしたものの、バルブ崩壊によりテナントが入らず売却を余儀なくされる。テレビ静岡の撤退と、当時は剰余金があってもプールすることはせず、「税金で取られるくらいなら」と選手の年俸に上乗せしたため、手持ちの資金はほとんどなかったそうだ。

一時はエスパルスの生みの親であり、清水サッカー育ての親でもある堀田哲爾さん(故人)が大手町のパレスホテルまで来て、川淵さんと何度も善後策を協議した。一時は沼津にある老舗のハム・ソーセージ会社がサッカーに理解があるため、スポンサーになるという話もあったそうだ。しかし「沼津の会社が清水援助するのは難しい」ということで、スポンサー話は立ち消えになった。

そこに現れたのが、「2年間だけなら」という条件付きで援助を申し出た、地元清水の物流会社大手の鈴与だった。鈴与は当初の2年間だけでなく、その後も支援を続け、98年には営業権を譲り受けて今日まで清水を支援している。川淵さんいわく、奥さんがサッカーにハマったため、今日まで支援してくれているのではないか、とのことだ。

こうした経緯があっても、川淵さんはそれを公表することはできなかった。地域密着型の「市民クラブ」として理想を掲げてスタートしただけに、消滅させてしまうと「それ見たことか」と言われかねないからだ。さらにバブル崩壊で手を引く企業が出てくるとも限らない。だからこそ、98年にバブル崩壊でクラブ経営からの撤退を余儀なくされたゼネコン大手の佐藤工業と、累積赤字で経営の見直しを迫られる全日空の窮状からクラブの存続が危ぶまれたフリューゲルスが、マリノスとの吸収合併で消滅の事態を避けられたことにホッとしたという。会見では「清水のようにはなりませんでした」と喉まで出かかったそうだ。

98年にJリーグに昇格したものの、その前年に北海道拓殖銀行が経営破綻したことで支援企業も連鎖倒産したコンサドーレ札幌も消滅の危機にあった。しかし元々スポンサーで「白い恋人」で有名な石屋製菓が支援に乗り出し、練習場やクラブハウスを建設した。川淵さんは石屋製菓と、経営破綻の危機にあった神戸を救った楽天の三木谷社長は「ホワイトナイツ(白馬の騎士)」と呼んでいまも感謝しているという。

こうしたエピソードを残しておきたいと、村井元チェアマンとの対談はvol3とvol4の連載となった。いま紹介したクラブだけでなく、平塚(現湘南)や甲府、仙台、福岡、鳥栖らの「消滅の危機」も明かされている。興味のある方は、「Jリーグの井戸を掘った人たち」でググればすぐにわかると思います。


【文・六川亨】

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