日米通算2700安打!右打席と左打席で人格を変えたスイッチヒッターの極意・松井稼頭央さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(20)

2002年9月23日のオリックス―西武で、この日2本目のホームランを放つ松井稼頭央さん=神戸

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第20回は松井稼頭央さん。走攻守ともハイレベルな球史に残る内野手は大阪・PL学園高まで投手だった。プロ入り後にスイッチヒッターへ転向し、日米通算2705安打を積み上げている。その両打ちの極意は何だったのか。(共同通信=中西利夫)

 ▽両打ちは幻に終わった可能性も

 僕はピッチャーだったので、野手としてやっていくのは本当にゼロからのスタートでした。プロの壁が高いという以前のレベルで、やらなければいけないこと、吸収することがいっぱいありました。高校時代との違いを感じるところまでは行き着いてなかったです。
 (西武入団当初は)谷沢健一さんが打撃コーチでした。対左投手の時は打率が良かったのですが、対右投手は2割もなかったと思います。それで足もあるということでスイッチヒッターをやってみるかとなりました。左打席に立つと、真ん中からちょっと内角よりの球でも体に当たると思いました。「このボールが、こんなに当たりそうに感じるの?」と。でも、2年目の春季キャンプは守備も走塁も全部やらないといけませんでした。シーズンに間に合わないから、スイッチ転向は一度はなしになりました。

1993年12月、西武入団発表時の松井稼頭央さん(中央)=所沢市

 2年目のオフに土井正博コーチから「来年から本格的にやります」と言われ、投球をよける練習から始まりました。右手をけがしてしまうと投げられなくなるので。初めはテニスボールとか軟らかいものでやって、それから硬式球でやりました。右半身を薄いスポンジで覆い、肘当てを付けて。硬式は8割の力でも当たるとむちゃくちゃ痛いですからね。スポンジが1枚あるのとないのとでは全然違います。内側(腹部側)が弱いので、しっかり背中側でよけないといけない。当たって(球の威力を)吸収してしまうと駄目。打撃マシン相手の練習でも空振りしたら膝に当たるぐらいのところに立たされました。右サイドの壁をつくらないとさばけないので、そういう練習から。それまで左で振っていないので、素直というか無駄がないというか、スムーズには振れているとは言われました。でも、僕は自分では全然分からなかったです。
 東尾修さんと出会っていなかったら、今の僕はなかったでしょう。東尾監督が抜てきし、スイッチにしても、そこでどれだけ目をつぶっていただいたかとなると、やっぱり東尾さんと出会わなければ、今の僕はないと常に思っています。

1997年8月のロッテ戦で適時三塁打を放つ松井稼頭央さん。62盗塁で自身初の盗塁王を獲得したシーズンだった=西武

 ▽コーチに教わった「ジキルとハイド」の考え方

 スイッチの難しいところは、絶対に後からつくった方を7、8割ぐらい練習してしまうこと。そうしたら右は2割しかやらないじゃないですか。振っている量が10本違うだけで、1年間でどれだけ本数が違うのかということになってきます。スイッチが大変なのは右を300回振ったら、左も300回振らないといけないということかな。片方だけでは、もう片方がおろそかになって絶対悪くなります。両方維持するのであれば、両方同じ数だけ振らないといけません。
 当時の須藤豊ヘッドコーチには「右と左の人格を変えなさい」ということを常に言われました。右打席は自然体、自分の感覚でいいですけど、左はつくった左なので賢くやらないといけない。つくった左はすぐ崩れてしまうから、そこはしっかりと(意識を)持っておかないと、という意味で。配球を読むのとは別です。両打席に立てるからスイッチなだけであって、右に立ったら右打者、左に立ったら左打者になりたいです。だから人格を変えなさいと。そこを一緒にすると引きずるので。前の打席と完全に離さないといけません。両方調子がいい場合はなかなかないです。右で駄目だった時に右投手が出てくると「ラッキー」と思ったりします。右で調子がいい時に左に立つと、左ピッチャーを当ててくる時もあります。だから、なるべく人格を変えるようにしていました。

2002年7月の日本ハム戦で本塁打を放つ松井稼頭央さん。このシーズンはトリプルスリーを達成=西武ドーム

 初めは右と左でバットの形を変えました。左打席はグリップの大きいものを使いました。どうしても振れない、うまくヘッドが返ってこないので、てこの原理じゃないですけど、グリップエンドの重さを利用して打ったんです。当てるバッティングでしたが面白くなくて、やっぱりしっかり打ちたいという気持ちが自分の中にあり、徐々にバットを変えていきながら最終的には右左とも一緒ぐらいになりました。(1本を共用するのではなく)右は右、左は左とグリップに書いて分けていました。基本的に右で感覚のいいバットも、左では違うんですよ。同じバットでも構えた時の感覚が違うんです。

2009年8月、アストロズの松井稼頭央さんは日米通算2千安打を達成し、名球会のジャケットを着て東尾修元西武監督(右)と握手=ミラー・パーク

 ▽夢のまた夢を超えた先にあったもの

 初回先頭打者本塁打は26本(プロ野球歴代6位)。基本的にはファーストストライクをしっかり打つ準備をしています。初回の先頭なので、投手もストライクが欲しいと思っているでしょうし。初球を空振りしても見送っても1ストライク。僕は見ていても、その日の投手の球が来ているか来ていないかは分かりません。振ってみないと分からないです。見たら絶対に遅く見えます。打たないからです。打ちにいくから、いろんな事が重なって初めて「わっ、ボール来てるな」というのが分かります。感じるわけじゃないですか。自分から動かないと分からないところがあると思います。そういう意味では初球を振ってもボールでも、そんなに気にはしなかったです。振ってきたなと思うと投手はまた警戒するので、後は駆け引きになってきます。2ストライクまでにどれだけ仕留められるか。追い込まれてからだと厳しい球が来ます。僕はホームランバッターじゃないので、チャンスは1ストライク目、2ストライク目ですよね、と思っています。

2015年の西武戦で安打を放つ楽天時代の松井稼頭央さん。この年の7月にはプロ野球通算2千安打も達成した=西武プリンスドーム

 振らないと打席に立つ意味がありません。見ているだけじゃ面白くないです。フォアボールを取りにいくためではないですからね。打席に立てば打ちたいとみんな思いますし、そうあってほしい。まさか、僕がここまでホームランを打てるとは思っていませんでした(日米通算233本塁打)。全く自分の想定外。でも何とかやっていけば、打てる可能性は出てくるんじゃないかと思いました。僕はホームランは打てないと諦めてしまうと打てない。高校では1桁。やっぱり積み重ねていけば、そこは打てなくはないと思いました。
 2002年にトリプルスリー(打率3割3分2厘、36本塁打、33盗塁)になりました。30本塁打は夢のまた夢でした。松永浩美さんがスイッチでシーズン最多の26本を打たれていたので、松永さんを超えたいと思っていました。スイッチ打者として一番になりたいと。盗塁30個は自信がありました。打率の方も3割前後ぐらいだったら率を求めないといけませんが、率を残した分だけ余裕は出ました。これが3割少しなら、トリプルスリーは狙えていなかったと思います。

2023年4月、西武監督としての初勝利を挙げ、ウイニングボールを受け取る松井稼頭央さん(左)=ベルーナドーム

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 松井 稼頭央氏(まつい・かずお)大阪・PL学園高からドラフト3位で1994年に西武入団。走攻守そろった遊撃手として最多安打2度、盗塁王3度。98年はパ・リーグ最優秀選手。2004年に日本選手の内野手で初めて米大リーグに移籍した。名球会入り条件の日米通算2千安打は09年8月に到達。11年に楽天で日本復帰。18年に西武へ戻り、同年限りで引退した。日米通算2705安打、465盗塁。23年から西武監督。75年10月23日生まれの47歳。大阪府出身。

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