<1>佐呂間(上) 北に開かれた「栃木」

開拓100年の記念碑を説明する阿部さん。碑は「栃木」の歴史を伝えている=4月下旬、北海道佐呂間町

 3月に亡くなった音楽家坂本龍一(さかもとりゅういち)さんは2011年の東京電力福島第1原発事故後、田中正造(たなかしょうぞう)の言葉を国内外に発信した。「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし」。足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走した正造が最晩年にのこした思想は、没後110年がたつ現在も生きる。公害の原点とされる鉱毒事件、水俣病、そして原発事故。鉱毒事件とつながる各地を訪ね、「文明」の姿を追い求めた。

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 原発事故の後、オホーツク海まで約30キロの開拓地がにわかに注目を集めた。

 北海道佐呂間町字栃木。

 もう一つの栃木-。1911(明治44)年、足尾銅山鉱毒事件の被害民らが開いた。

 その100年後、原発事故は起きた。

 殖産興業の国策、原発政策の下で故郷を奪われた様が重なり、メディア関係者や研究者が訪れた。入植者の子孫もまた、地域の歴史を見つめ直すようになった。

 「躍進 先人の偉業を讃(たた)え」。開拓100年の記念碑が、集落の栃木神社に建っている。

 4月下旬、碑をなでながら、建立に携わった阿部隆文(あべたかふみ)さん(53)が思いを聞かせてくれた。三鴨村(現栃木市)から入植した4代目。

 「おやじ、じいさんの思いを大事にしたい。先人の開拓の上に、自分たちの生活は成り立っている」

 咲き始めたエゾヤマザクラが、遅い春の訪れを告げていた。

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 渡良瀬川上流の足尾銅山から出た鉱毒沈殿を目的とした遊水地計画に巻き込まれ、下流の旧谷中村は06(明治39)年、強制廃村となった。5年後、同村を含む周辺8町村の66戸二百数十人が、県のあっせんで北の大地へ向かった。

 県からは「南向きの肥沃(ひよく)な土地」と聞かされたが、実際は違った。山に囲まれた傾斜地。唯一開けた北からオホーツク海の寒風が吹き付ける。真冬の気温は氷点下30度を下回る。

 日光も遮る原生林で、幹を大人が抱えるような巨木を切り倒す開墾。切り株は昭和になっても、田畑に根を張っていたという。「地獄だったろうな」。後に愛媛県から入植した子孫で元自治会長の松浦晃(まつうらあきら)さん(66)は、労苦をしのんだ。

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 入植から今年で112年。一時は100世帯を超えたが、現在は22世帯、65人が暮らす。4世帯が栃木県からの子孫と家族だ。足尾と同様、過疎化と高齢化が進む。

 阿部さん自身は栃木県を訪れたことはない。それでも子どもの頃、戸籍を見て先祖の出身地に親しみはあった。

 「栃木の名を残したい。誰かが、ここに居続けなきゃいけない」

 自宅の玄関先から傾斜地の集落を見上げた。周囲の山々は雪が残るが、かつての原生林には牧草の緑が広がる-。阿部さんが愛する栃木の景色だ。

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