一度も来てないけど…黄門さまが神戸に残した大きなレガシー 楠公さんを高く評価、建立の墓碑に自筆の書

徳川光圀の自筆が刻まれた楠木正成の墓碑=神戸市中央区多聞通3、湊川神社

■徳川光圀

 「助さん格さん、懲らしめてやりなさい!」からの、「この紋所(もんどころ)が目に入らぬか!」

 名せりふで知られる水戸黄門シリーズだが、これはあくまでフィクションだ。本名徳川光圀(みつくに)は好奇心旺盛の学者肌。大著「大日本史」の編さんを始め、儒学、中でも朱子学を奨励したという。

 「日本各地を巡って悪者を懲らしめる物語ですが、実は、光圀自身は関東地方から出た形跡がありません」。郷土史に詳しい姫路独協大学副学長の道谷卓(たかし)さんは指摘する。

 一方、光圀がいなければ、楠木正成(まさしげ)がこれほど有名にはならなかったかもしれない。「大日本史」では南朝(正成が仕えた後醍醐天皇方)の正統性を主張し、天皇に忠誠を尽くした正成を大いに評価していた。

 そこに、正成の墓の近くにある寺の住職千巌(せんがん)からの知らせが入る。「兵庫に楠木正成の墓がある。碑を建ててほしい」。光圀は助さんこと佐々宗淳(むねきよ)(介三郎)を派遣し、墓碑を建立することにした。墓の前に刻まれている「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の文字は、光圀自筆の書を佐々が運んできて石に彫ったものだ。

 「光圀自身は一度も兵庫に来ていません。ちなみに、佐々は武術の達人ではなく歴史学者ですので」

 ドラマとの関連性はともかく、御三家の一人が動いたことで、正成の名が広く知られるようになった。墓碑は1692年にできたが、その後、18世紀以降の地誌には相次いで「楠木正成の墓」が紹介されるようになったという。

 湊川神社の「大楠公御墓所」には、この墓碑と光圀像がある。墓碑の下には、亀の胴体と竜の首の「螭首亀趺(ちしゅきふ)」と呼ばれる伝説上の生き物。道谷さんによると、朱子学の影響が大きいという。また、境内には「従是(これより)楠公石碑道」と刻まれた石柱が立つ。

 「西国街道から墓碑まで細い道があり、石柱はおそらく街道に立っていた。正成の墓が広く知られ、参拝者も増えたようです」

 そして幕末にかけて、吉田松陰や伊藤博文、西郷隆盛など多くの志士たちがお参りをした。幕府を倒し、天皇中心の新しい国家樹立を目指した彼ら。天皇に忠誠を尽くした楠木正成の姿を、激動の世に生きる自らの身に重ねていたのかもしれない。

 1872(明治5)年5月、湊川神社はついに創建された。神戸が開港してから、わずか4年後だ。

 「新政府は各藩の寄せ集めでまだまだ脆弱(ぜいじゃく)でした。国民に対して『天皇の下に新国家ができた』と広く知らせるため、思想的な背景が必要だったのでしょう」

 その2年後に神戸駅が開業し、駅や神社周辺には多くの人があふれたという。猛スピードで走る鉄の乗り物を見ては驚き、神社前の店には人だかりができた。

 新時代の幕開け。活気にあふれたまちの真ん中で、楠公さんは神戸市民にとって欠かせない存在になっていった。(安福直剛)

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