自然の代弁者(サメ)狂気の粘着! サメの皮を被った鮫肌感触サスペンス『ブラック・デーモン 絶体絶命』のエネルギッシュな魅力

『ブラック・デーモン 絶体絶命』© 2023. Black Demon Movie, LLC. All rights reserved.

恐ろしき自然の代弁者

『ブラック・デーモン 絶体絶命』は、ちょっとヒネたサメ映画だ。正確にはメガロドン映画……いや、そんなことはどうでもいい。本作におけるサメ(じゃなかったメガロドン……だけど、便宜上サメとする)は所謂“マクガフィン”である。つまり登場人物の命を脅かすキャラクターであれば、何でもいいのである。

なぜなら、本作のサメは血に飢えた野生の生物ではなく、自然を破壊した人間に血の代償を与える存在だからだ。

予測が容易いシナリオと安易な環境問題提議はチープに感じる。だが『ランボー ラスト・ブラッド』(2019年)で知られるエイドリアン・グランバーグ監督は本作で、自然の代弁者がいかに恐ろしい存在であるか? を低予算映画ならではのエネルギッシュな演出で我々を魅了してくれる(ただし、一定のB級映画愛は必要だ)。

サメと爆弾のW地獄

石油企業社員ポールは海上油田の定期チェックのため、メキシコ沿岸の島にやってきた。彼の妻と二人の子供も一緒である。さっさとチェックを済ませ、家族でリゾートを楽しもうというわけだ。

しかし、ポール一行はリゾート地ではなく地獄へやってきたことがわかる。殆どゴーストタウンと化した町、地元住民の無礼な言動……。

ポールもポールだ。横柄な態度や家族に対する無頓着さは不愉快極まりない。怪しげな住民たちがうろつくバーに家族を残して、誰が油田チェックなんて仕事に向かうというのか。当然、妻と子供たちは地元民に襲われることになる。

そんなわけでポール一家は、なんだかんだと海上油田にて再会を果たすのだが、そこでサメと爆弾のダブル地獄の幕開けとなる。

怒れる神と人間の戦い

各々の振るまいにイライラさせられる脚本だが、悔しいことに導入部からしっかりと作り込まれている。善人と悪人を一挙に設定することで、観客に不要な雑念を省かせ「キャラクターが織りなすサスペンス」に集中させてくれるのだ。

さらにアステカ神話も散りばめ、多くのサメ映画が陥る「サメ VS 人間」の安直なプロットから解放。怒れる神と人間の戦いに昇華させている。

しかし「人が食われる」描写を観るための「サメ映画」としては今一歩かもしれない。海から引き上げたとき、下半身がズタズタに引き裂かれるキャラクターや、バラバラになった手足が海を漂う場面もあるが、直接的な表現は避けられているためだ。

あくまで中心に据えられるのは、油田から脱出しようとすればサメに喰われる、とどまってもサメの体当たりで油田は崩壊間近、さらに海底には時限爆弾と八方塞がり……といったスリリングなシチュエーションだ。エイドリアン・グランバーグが見せたいのは、あくまでドラマティックなサスペンスなのである。

ラテンの風が吹く熱々な演出

そんな窮地で、油田会社の悪事が暴かれていき、ポールが現地民に徹底的に嫌われている理由が露わになる。本作のあまりの善人の少なさに、「みんな食べられればいいのに!」と叫びたくなるが、“唯一の良心”といえるキャラクターもいて、観ていて気持ちが揺れ動いてしまう。これはキャストの多くがオーバーアクト気味の芝居を披露していることもあるだろう。

ディレクションを非難してるわけではない。エイドリアン・グランバーグ監督はドミニカ共和国の出身。つまりラテンの血が流れる熱々な監督である。『ランボー ラスト・ブラッド』もそうだったが、彼のディレクションはどこか大仰な感触があり、なんとも味わい深いのだ。

といっても、大雑把だというわけでもなく、緊張感のある海中シーンでは、ヴィンテージレンズを使い油田のオイル漏れによる視界の悪さを表現。低予算といえども、小さなテクニックで最大限の効果を生むよう努めている。

この絶妙な社会批判とサスペンスフルな演出は、70年代に“クマ映画”が大流行した時の『プロフェシー/恐怖の予言』(1979年)に類似している。『プロフェシー~』を監督したジョン・フランケンハイマーも、『ランボー』まではいかないがしっかりとした軍人映画を制作しており、エイドリアン・グランバーグとの共通点は多い。

それはともかく『ブラック・デーモン 絶体絶命』は、ちょっぴりチープながら威勢のいい作品に上がっている。その味わいは、まさに“B”級だ。

文:氏家譲寿(ナマニク)

『ブラック・デーモン 絶体絶命』は2023年6月2日(金)より丸の内ピカデリー、新宿ピカデリー、池袋シネマ・ロサほか全国公開

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