上皇ご夫妻による「葵祭」の観覧は、ただの見物ではなかった 平安からの伝統が現代に復活?

葵祭の行列を観覧し、笑顔で手を振られる上皇ご夫妻=5月16日、京都市(代表撮影

 上皇ご夫妻は5月16日、「京都三大祭り」の一つ「葵祭」を観覧された。〝王朝絵巻〟と称されることの多いこの祭りは、平安装束をまとった人々による一種の「仮装行列」のように思われがちだが、天皇や皇室との浅からぬ関係をひもといてみると、その本質は決して単純な「見せ物」ではない。ご夫妻による観覧も、ただの見物ではなく、ある歴史的な意義を含んでいる。(共同通信=大木賢一)

下鴨神社に到着した「斎王代」(中央)ら=5月16日、京都市

 ▽立ち上がって会釈
 5月16日、京都の空は晴れ渡り、気温は朝からぐんぐん上昇。真夏のような暑さになった。五百人もの行列が京の街を進む葵祭最大の見せ場「路頭の儀」は前日の天候不良のため、この日に順延されていた。
 京都御所の正門に当たる「建礼門」前に、ご夫妻を乗せた黒塗りの車が着いたのは午前10時半。行列を見物するための京都御苑内の「一般観覧席」は、長さ約400メートルにも及ぶ。ご夫妻は集まった群衆ににこやかに手を振ると、用意されたテントの中の席に座った。席は建礼門に最も近い位置にある。
 間もなく門の前から行列が進み出す。現在の警察官に当たる「検非違使」、山城国の次官である「山城使」、藤などの花に彩られた「牛車」などが次々に通過していく。衣冠・束帯姿の参列者が頭を下げるたび、ご夫妻はわざわざ立ち上がって会釈を返した。行列は下鴨神社を経由して約8㌔の道のりを上賀茂神社まで向かう。
 「本列」が過ぎると、今度は「斎王代列」が現れる。「斎王」は平安時代に皇室から内親王が選ばれて祭りに加わったもので、現在は京都ゆかりの未婚女性が代わりに務めることから「斎王代」と呼ばれる。
 十二単姿で「腰輿」(輿)に乗った斎王代はひときわ優美で華やか。その姿はさながら「葵祭のヒロイン」であり、沿道の人々が盛んにカメラのシャッターを切った。ただ、祭り自体の主役は斎王代ではない。主役は、既に通り過ぎた本列の中にいた「近衛使代」だ。

京都御苑内を進む「近衛使代」=2019年5月15日、(葵祭行列保存会提供)

 ▽天皇からの使い
 「近衛使代」とは、一言で言えば天皇が差し遣わす勅使「近衛使」の代理。従って、行列の中で最も位が高い。京都市観光協会の案内パンフレットによると、そもそも祭りの起源は約1500年前の欽明天皇の頃。凶作が続いたため、馬に鈴を付け、人に「猪頭」をかぶらせて祭礼を行ったところ、風雨はやみ、五穀は実り、国民も安泰になったという。その後朝廷から勅使が遣わされるようになった。
 葵祭は「賀茂祭」とも呼ばれ、石清水祭(京都)、春日祭(奈良)と並んで「三大勅祭」とされる。勅祭とは何か。辞書を引くと「勅命によって行われる祭事」とある。
 時の天皇が「勅使」を遣わすのは、現代に至るまで変わらぬ伝統で、宮内庁に問い合わせてみるとこんな説明をされた。
 「毎年、天皇陛下が掌典を勅使として派遣しています。勅使は下鴨神社、上賀茂神社で行われる『社頭の儀』でご祭文を奏上します」
 掌典とは、祭祀をつかさどる内廷職員。宮内庁の公務員ではなく、天皇家の私的な職員の扱いになっている。
 ここで話が少しややこしくなる。天皇陛下の勅使が派遣されるのは、行列が市内を練り歩く「路頭の儀」ではなく、あくまで両神社で行われる「社頭の儀」の方だ。東京から来た勅使は行列には入らない。
 京都宮廷文化研究所代表理事で京都産業大の久禮旦雄准教授が解説する。
 「路頭の儀では、近衛使代が勅使列の中心として馬に乗って進みますが、これは東京からの正式な勅使ではなく、いわば勅使を模したものです。神社に着いて楼門に入ると横に控え、神前でのお祭りの際は宮中から派遣された掌典が勅使として、紅色の紙に書かれた天皇からの『祭文』を読み上げます」
 勅使が関係する以上、今回の上皇ご夫妻の観覧は、単に地方訪問先で、その地の名物の祭りを見物するのとは性質が違う。久禮准教授は「葵祭を、いわば宮廷行事の一環として理解することは非常に大事だと思います」と話している。

天皇陛下からの御祭文を奏上する勅使=5月15日、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社提供)

 ▽昭和天皇も、平安時代の上皇も観覧
 宮廷行事の一環ならば、現在の上皇さま以外にも、天皇や皇族がこの祭りを見物したことはあったのか。調べてみると、1965(昭和40)年5月15日に昭和天皇が観覧していた。当時の資料によると、テントはなく、今回とほぼ同じ場所に白い布をかぶせたロイヤル席のようなものを設置していたようだ。昭和天皇は、全国植樹祭を目的とした鳥取県訪問の帰りだった。「昭和天皇実録」を調べてみると、記載があった。
 「御朝餐後、仙洞御所の庭を御散策になる。(中略)午前九時五十七分、京都大宮御所をお発ちになり、建礼門前の御観覧席に臨まれ、葵祭行列協賛会参与猪熊兼繁より説明を受けられつつ、葵祭の行列を御覧になる」
 記載によると、秩父宮妃、高松宮、高松宮妃、三笠宮妃ら皇族方も一緒だったという。
 昭和天皇に説明をした猪熊兼繁氏は、当時京大教授だった。
 そして、今回の上皇ご夫妻の観覧では、その次男で考古学者として名高い猪熊兼勝氏が案内役を務めた。兼勝氏は「葵祭行列保存会」の前会長。猪熊家はもともと京都の旧家だったが、戦国時代の幕開けとされる「応仁の乱」で焼け出され、四国に移住。江戸時代に高松松平家の庇護を受けた後、幕末に京都に戻った。朝廷や公家の礼式や行事を研究する「有職故実」を代々の「家学」とし、兼勝氏の曽祖父は明治天皇に進講したこともあるという。
 葵祭は、平安時代の上皇も見物していたようだ。久禮准教授によると、平安後期の白河上皇や、鎌倉期の後嵯峨上皇が桟敷を設けて見物した例があり、退位後の上皇が行列を見ることはしばしば行われていたという。
 現在の上皇ご夫妻はこうした事例を知っていたのだろうか。もしそうだとすれば、平安、鎌倉時代に見られた「祭りを楽しまれる上皇」というあり方が現代に復活したと言えるのかもしれない。

葵祭を観覧中の上皇ご夫妻

 ▽東京からの勅使、なぜ行列に加わらない?
 ところで、行列を見ながら私が疑問に思ったことがある。せっかく皇居からご祭文を託された勅使が派遣されるのなら、なぜ「路頭の儀」で行列の中に入らないのだろうか。
 猪熊氏の見方はこうだ。「明治時代の祭り再興以来の伝統を踏襲しているからです」
 天皇が京都から東京に移り、祭りで勅使が京都御所を出発することがなくなると、代わりに祭りに加わる人が必要になった。それが「近衛使」の代わりである「近衛使代」として定着し、「近衛使代」と「勅使」が分離する現状に至ったのだという。現在の勅使は東京から新幹線に乗ってやってくる。
 もう一つ気になったのは、近衛使代を務める人だ。一体、どんな人なのだろうか。この点も、猪熊氏が教えてくれた。
 「旧公家の中でも平安時代から続く京都ゆかりの家々から近衛使代が選ばれています」
 祭りは応仁の乱で途絶し、江戸時代に復興。明治時代にも途絶した時期があったが、再興。戦中に中断したものの、1953(昭和28)年に葵祭行列協賛会の後援を得て「勅使列」が復活。さらに斎王代が創設されるなどして命脈を保ってきた。2000(平成12)年に葵祭行列保存会が創設され、現在に至るまで路頭の儀の運営を担っている。
 1500年もの歴史を重ねてきた葵祭の裏には、京の人々の絶え間ない努力があった。今回のご夫妻の観覧は、祭りを支えた人々への皇室からの感謝の念と、京の人々の皇室への敬愛が交錯しているように思えた。

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