『ARTAアペックスMR-S(2002年)』新たなるトヨタミッドシップ伝説の始まり【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、2002年の全日本GT選手権を戦った『ARTAアペックスMR-S』です。

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 名門、つちやエンジニアリングの力もあり、1998年、1999年と全日本GT選手権(JGTC)のGT300クラスを2連覇するという偉業を成し遂げ、伝説を残したSW20型の『トヨタMR2』。その『MR2』の後を継ぐマシンとして、JGTCのGT300クラスに投入されたのが、市販車でも『MR2』の後継車種だったミッドシップオープンスポーツの『トヨタMR-S』だった。

 2000年よりJGTCに登場した『MR-S』は、車両のデザインやエンジンのチューニングなどをTRDが、実際のマシンの製作はアペックスレーシング(後のapr)が担当するという共闘体制で開発が進められた。

 GT300仕様の『MR-S』は、開発がスタートした時点で市販車のデータがなかったため、ベース車のモノコックに頼ることなくパイプフレームを構成して、必要なボディ剛性をまず確保した。またフロントサスペンションには、設計やセッティングの自由度を求めてインボード式のダブルウイッシュボーンを採用。

 さらに前後ディフューザーとともに組み合わせてダウンフォースを確保するため、ボディ下面をレギュレーション上で有利なフラットボトムとするなど、それまでとは一線を画すコンセプトのマシンだった。

 一方でエンジンは、『MR2』時代にも使われていた2.0リッター直4ターボの3S-GTEを継承。ただレギュレーションで定められたリストリクター径がかなり厳しいものであったため、中間域のトルク工場を狙ってアペックスでいくつものタービンをベンチにかけてテストし、最適なものが選ばれていた。

 そもそも『MR-S』は『MR2』よりも全長が短くコンパクトに見えるが、トレッドはほぼ同じで、ホイールベースが50mm長いため、ディメンジョン的にはレーシングカーとして有利な要素を備えていた。

 しかし前述のリストリクター径の問題やターボ+ミッドシップということで最低重量が1075kgに設定されてしまったことも相まって、デビュー年である2000年の序盤戦はポイント獲得を重ねていたものの、なかなか優勝には手が届かずにいた。

 それでも徐々に熟成が進み、同年の鈴鹿サーキットで開催された最終戦では初優勝を達成。翌2001年にはさらに他の『MR-S』ユーザーが増えたこともあり、『MR-S』のパイオニアであるアペックスを含め、全7戦中4勝を『MR-S』がマークするまでになっていた。そして2002年、ついにタイトル獲得のときが訪れる。

 そのタイトル獲得劇の主役となったのが2000年のシーズン途中からアペックスより独立したaprが走らせていた『ARTAアペックスMR-S』だった。

 TRDの風洞を使って開発されたエアロでさらにポテンシャルを上げ、この年からBFグッドリッヂへとタイヤをスイッチをした『ARTAアペックスMR-S』は、新田守男/高木真一のコンビでTIサーキット英田で開催された開幕戦で、駆動系に問題を抱えながらもまずポールトゥウインを達成する。

 その後もトランスミッションやドライブシャフトなど駆動系にトラブルが起こることもあったが、第2戦以外すべてのレースでポイントを獲得して、トップから4ポイント差のランキング3位という位置で最終戦の鈴鹿サーキットラウンドを迎えた。

 このレースで『ARTAアペックスMR-S』は4位に入賞。この年、第2戦の富士スピードウェイ戦から登場し猛攻を見せたヴィーマックを逆転し、見事、初のGT300クラスシリーズチャンピオンを獲得したのだった。

 そしてこれを皮切りにaprの走らせるMR-Sは、2002年以後もチャンピオンを複数獲得し、2000年代後半に至るまで一線級の戦闘力を誇るマシンとして進化し続け、長きに渡り活躍を続けていく。

ツインリンクもてぎで開催された2002年のJGTC第6戦を戦ったARTAアペックスMR-S。新田守男と高木真一がドライブした。

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