坂本龍一さんが東日本大震災の被災家族に残した〝一生の宝物〟 偉大な音楽家を前に「戦メリ」を奏でた少女「同じ目線で寄り添ってくれた」

コンサート会場の楽屋に招待された菅原綾乃さん(左から2人目)ら家族=2012年12月、岩手県陸前高田市(菅原教文さん提供)

 東日本大震災から約4カ月後の2011年7月、岩手県住田町の仮設住宅に世界的に名高い音楽家、坂本龍一さんの姿があった。目の前で13歳の少女が演奏しているのは坂本さんが作曲した映画「戦場のメリークリスマス」のあの曲だ。完璧な演奏には程遠かったが、坂本さんは「ありがとう」と少女の手を握った。
 交流はその後も続き、緊張しながら演奏した少女は26歳になった。「一流の人が同じ目線で寄り添ってくれた」との思いは強い。震災から12年。今年3月に亡くなった偉大な音楽家は、ごく普通の一家に「一生の宝物」を残していた。(共同通信・森清太朗)

 

「東北」Tシャツを着る坂本さん=2017年3月25日、東京都新宿区 

 ▽仮設住宅に「運命」の入居
 坂本さんは震災直後から被災地支援に動いていた。建設資金の寄付を呼びかけて、岩手県住田町内に地元木材を活用した木造仮設住宅93戸を建設。津波で甚大な被害を受けた沿岸地域の被災者を受け入れる目的だった。5倍以上の倍率となる中、くじ引きで入居を引き当てたのが菅原綾乃さん(26)の家族だった。
 陸前高田市にあった菅原さんの自宅は津波に襲われ全壊。当時13歳だった綾乃さんや父教文さん(58)は無事だったが、同居していた綾乃さんの祖父母が亡くなった。当時12歳だった弟三四郎さんは約2カ月間続いた避難生活になじめず、栄養失調で吐くこともあった。
 悲運が続く中、父親から「命運」を託された三四郎さんが入居を引き当てた。教文さんはくじ引きが「不思議と当たる気がしていた」。津波で亡くなった綾乃さんの祖父で大工の輝男さんは生前「地元の木材で作った家ほどぜいたくなものはない」と語っており、地元木材で作られた坂本龍一さんの住宅に、輝男さんが導いてくれたように感じた。

坂本龍一さんが寄付を呼びかけて建設された木造仮設住宅=撮影日不明、岩手県住田町

 ▽音楽で感謝伝えたい
 2011年5月の仮設入居からまもなく、教文さんは坂本さんが7月に団地を訪問すると聞きつける。5歳からピアノを続けていた綾乃さんに「音楽で感謝の気持ちを届けてみないか」と提案した。
 来訪まで1カ月。震災後に購入した電子ピアノで、坂本さん自らも陸軍大尉役で出演した映画「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲「Merry Christmas Mr.Lawrence」のサビ部分を綾乃さんはひたすら練習した。
 「頑張っている姿を見せて、言葉より音楽で感謝を伝えたい」との一心だったが、鍵盤をたたくたびに「自分の心が救われる感じがした」。映画を見たことがなかった綾乃さんにとっては、聞いたことがある程度の曲。それでもその切ない曲調が、震災で祖父母と自宅を失い傷ついた綾乃さんを徐々に癒していった。 訪問当日。綾乃さんがピアノを弾き、教文さんが楽譜をめくる。親子2人で届けた恩返しの演奏だった。ミスタッチこそなかったが作曲者の坂本さんの前では緊張して上出来とはいかなかった。

仮設住宅内で、菅原綾乃さんが演奏する映画「戦場のメリークリスマス」の音楽を聴く坂本龍一さん(手前)=2011年7月、岩手県住田町(菅原綾乃さん提供)

 それでも、坂本さんは「ありがとう」と弾き終えた綾乃さんの手を握った。「これからもピアノを続けてね」とも言い、笑顔で励ましてくれたことは忘れられない思い出だ。夢中だった親子の記憶には残っていないが、周囲にいた人によると「よく弾けたね」とも声をかけられたという。綾乃さんは振り返る。「つらいこともあったけど、坂本さんに音楽を届けられたことは、かけがえのない機会でした」

楽器修復の基金を立ち上げた坂本さん=2011年7月20日、東京都千代田区

 ▽被災地に寄り添い、続いた交流
 社会活動に熱心だった坂本さんは、東日本大震災の後、被災三県で壊れた楽器を無償で修理する基金の設立に尽力したほか、震災を経験した小学生から大学生までの若者による楽団「東北ユースオーケストラ」を指導した。被災地での演奏会をたびたび開催し、被災者と時間を共有してきた。
 菅原さん一家との交流も一度きりでは終わらなかった。2012年末、坂本さんは陸前高田市の高田第一中の体育館で開いたチャリティーコンサートで、菅原さん一家を楽屋まで招待。坂本さんにもらったのは「住宅」ではなく「家族のだんらん」だったと感じていた綾乃さんは、「(仮設住宅は)暖かく、ぬくもりを感じます」と報告した。

岩手、宮城、福島県出身の小学生から大学生で編成した東北ユースオーケストラと坂本さん=2013年10月13日、宮城県松島町

 地元の「酔仙酒造」に勤める教文さんがにごり酒「雪っこ」を贈ると、打ち上げの席で「おいしい、おいしい」と何度も杯を口に運んでくれた。その後も好んで飲んだという。
 3度目の対面は、仮設住宅でピアノを披露してから8年後の19年夏だった。復興イベントに参加し、住田町で食事を取った坂本さんへのサプライズとして関係者が一家を招いた。
 綾乃さんは22歳になっていた。
 「あの時の!大きくなったね」
 少し驚いた様子で、食事会に現れた家族4人に声をかけた。わずかな間だったが、綾乃さんは「気さくで温かさにあふれていた」と語る。ただ、坂本さんとの時間は、これが最後になった。

坂本龍一さん(中央)とサプライズで再会を果たした菅原綾乃さん(左から2人目)と父教文さん(右から2人目)ら家族=2019年8月、岩手県住田町(菅原教文さん提供)

 ▽ピアノを見ると思い出す
 大学進学を機に、綾乃さんは仙台市のアパートで1人暮らしを始めた。会うたびに家族4人で坂本さんを囲んで撮った3枚の記念写真は綾乃さんにとっての、そして家族4人にとっての「宝物」。今年4月、坂本さん死去を知った教文さんは、親元を離れた綾乃さんにこの3枚を送信し、死を悼んだ。
 「戦メリ」を奏でたあの電子ピアノは再建した実家に残してきた。故郷に戻ると、思いを乗せて弾いたあの鍵盤に触れたくなる。綾乃さんはこう語った。「これからもピアノを見るたび、きっと坂本さんを思い出します」

仮設住宅内で、坂本龍一さん(中央)と記念写真に納まる菅原綾乃さん(右から2人目)と父教文さん(一番左)ら家族=2011年7月、岩手県住田町(菅原教文さん提供)

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