聞き取れないほどの「がらがら声」が元通りに!?声帯を再生させる「魔法」のタンパク質 彗星のごとく現れるか、日本発創薬ベンチャー

クリングルファーマの安達喜一社長。HGFを「100年後でも使われる医薬品に」と意気込む=5月、大阪府茨木市

 風邪などの症状がないのに、がらがら声やしわがれ声、ハスキーボイスが続く―。これらの原因の一つが、声帯が硬く変化して声が出にくくなる「声帯瘢痕(はんこん)」と呼ばれる希少疾患だ。そんな困難な病気に苦しむ人々を治療する薬が、彗星のごとく日本から現れる日が近いかもしれない。

 救世主とされるのが人間の体内にある「HGF(肝細胞増殖因子)」と呼ばれるタンパク質だ。大阪大発の創薬バイオベンチャー、クリングルファーマはHGFによる組織の再生機能に着目。臨床試験で声帯はんこんの患者にHGFを投与したところ、2人に1人の確率で十分な改善効果が得られた。歌手の仕事が事実上絶たれていた男性は声帯がほぼ再生。伸びやかな歌声を取り戻して復帰を果たし「魔法の薬のようだ」と話したという。

 クリングルファーマは創業から20年余り。開発頓挫などの苦難を乗り越え、ついに臨床試験が最終段階に入った。(共同通信=松尾聡志)

 ▽692個のアミノ酸からなるHGF、難易度の高い量産技術を確立
 クリングルファーマの社長を務める安達喜一氏はカビの研究者だった異色の経歴を持つ。安達氏によると、HGFは1980年代に日本で初めて発見されたタンパク質だ。発見したのは大阪大名誉教授を務めた故中村敏一氏。クリングルファーマは2001年に設立され、HGFの一部を活用した抗がん剤の開発を目指した。だが臨床試験に入れないまま断念。2005年にHGFそのものを製造する技術の開発に転換し、2007年に量産技術を確立した。

 HGFは692個のアミノ酸がつながり、社名の由来でもある「クリングル構造」という複雑な構造を持つ。安達氏はHGFを「医薬品として耐えうる厳格な基準で大量生産できるのが強みだ」と話す。糖尿病の治療法の一つとして使われるインスリンが51個のアミノ酸で構成されることを踏まえると、HGFの製造難易度の高さが分かる。

クリングルファーマ本社のオフィスに掲示されたHGFの説明

 ▽2人に1人が改善、軽症ならかなりの効果を期待
 臨床試験に携わる京都府立医科大の平野滋教授によると、声帯はんこんは発症の原因がはっきりしないが、声の出し過ぎで声帯が炎症した場合や声帯の手術をした後に起きやすい。職業的に声帯を酷使する歌手や教師、政治家といった人がかかるケースが多い。日本喉頭科学会の調査によると、国内の新規患者数は年間300人前後と推定される。重症になると、聞き取れないほど声ががらがらになったり、かすれたりして日常会話にも支障を来すという。

 クリングルファーマの臨床試験に参加した歌手の男性は軽症で日常会話に問題はなかったが、高い声が出にくくなり、プロとしての活動ができなくなっていた。臨床試験では声帯の粘膜内に局所注射でHGFを複数回に分けて投与。その結果、男性は硬化して振動しなくなっていた声帯がほぼ元通りになり、歌唱力を取り戻したという。臨床試験を終えてから10年近くたつ現在、男性の近況は分からないが、平野教授は「連絡がないのは元気な証拠かも」と言う。

 これまでの臨床試験でHGF投与による改善効果が認められたのは2人に1人だった。その評価について、平野教授は「ステロイドなどを注入してもほぼお手上げだったことを考えると意義がある。軽症なら改善がかなり期待できる」と話す。

 臨床試験の最終段階に当たる第3相試験は2022年11月に始まり、2025年の後半に終了予定だ。平野教授は「重症患者でどの程度の改善効果が得られるかが焦点だ」と指摘している。

日本で発見されたタンパク質HGFが入った小瓶

 ▽米ベンチャーで知ったビジネスの面白さ、白衣を脱ぎ帰国
 クリングルファーマ社長の安達氏は1996年に米国に渡り、いわゆる「ポスドク」の博士研究員として、カビが稲に引き起こす「いもち病」の研究に従事。1999年に米バイオベンチャーに研究員として入社した。そこでは日本人が自分しかいなかったため、日本企業との交渉に通訳のような形で参加するようになり、基礎研究をビジネスへと橋渡しする面白さを知った。

 白衣を脱ぐ決断をして帰国。三井物産のシンクタンクである三井物産戦略研究所で勤務していた際、戦略研究所が間接的に投資していたクリングルファーマと出合い、2004年に入社した。安達氏は「メディカルのバックグラウンドはなかったが、サイエンス、英語、ビジネスに対応できる人物を求めていた当時の社長の誘いに応じた」と振り返る。

 当時のクリングルファーマは社長と総務担当の社員1人のみで、海の物とも山の物ともつかない状態だったという。それでも飛び込んだのは「HGFの可能性に引かれた」からだ。安達氏は「もともと体内にある物質を使って、体に足りないものを補うというコンセプトはシンプルだ。膵臓から分泌されるインスリンは糖尿病の治療薬になって100年になる。HGFを100年後でも使われる難病の医薬品にしたい」と説明する。

クリングルファーマ本社が入る大阪府茨木市の起業家育成支援施設「彩都バイオインキュベータ」

 ▽脊髄損傷治療でも臨床試験が最終段階、「ゲームチェンジャー」目指す
 HGFによる治療の可能性は、声帯はんこんにとどまらない。脊髄損傷によって手足のまひなどが生じた患者にも改善効果が見込まれている。脊髄損傷の原因は運動中の事故や交通事故だけでなく、近年は高齢者が庭木の剪定中にはしごから落ちたり、路上で転んだりして起きるケースが増えている。日本脊椎脊髄病学会によると、脊髄損傷の国内の新規患者数は年間5千人以上とされる。

 クリングルファーマは脊髄損傷の直後に当たる「急性期」の患者に対するHGFの臨床試験も進めている。2020年7月に開始した第3相試験は、2023年10月に終了予定だ。安達氏によると、これまでの臨床試験では、最も重症の完全まひ状態だった患者がHGFを投与した後、指や下半身を少し動かせるようになるといった改善効果が得られたとしている。

 新型コロナウイルス禍では、バイオベンチャーの米モデルナやドイツのビオンテックが「メッセンジャーRNA(mRNA)」という遺伝物質を使う技術でワクチンを開発し、業界を大きく変える「ゲームチェンジャー」として一躍脚光を浴びた。安達氏はモデルナやビオンテックの成功を例に挙げ「HGFの技術で一点突破し、必ずやり切る」と力を込めた。

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