奇跡のコラボ作!! 元ネタは超有名なあの“ホラー” か 『怪物』茶一郎レビュー

はじめに

お疲れ様です。茶一郎です。今週の新作は『怪物』。監督・是枝裕和さん、脚本・坂元裕二さんという夢のコラボ。これが是枝作品とも、坂元裕二脚本とも、どちらともにも見えるという見事なバランスを保った華麗なコラボレーションを見せます。そして何よりも美しい、美しいと思ってしまいました。ここに若干の後ろめたさを感じながら、このとても美しく複雑なパズルのような映画『怪物』をまとめていきたいと思います。お願い致します。

あらすじ

物語への直接的な言及はここまでにして、今回の動画では遠回りに感じてしまうかもしれませんが、まず作品の輪郭をなぞっていきます。というのも宣伝が一見、ホラー映画なのかと見間違えるほどに物語への言及を避けていますので、その宣伝をリスペクトして、動画後半で物語、それぞれの描写に触れるようにします。

この『怪物』という映画は、「人は自分が見えているものしか見えない」「人は想像できることしか想像できない」という至極真っ当な、こう言葉にすると何を当たり前こと言っているだという事を、時に観客のその欠如した想像力を利用して描く、スリリングなヒューマンドラマです。夜中、息子・湊が家にいないと母親は懐中電灯を片手に息子を探しに行きます。スクリーンは真っ暗で、観客は母親が懐中電灯で照らしている所しか見えない、「人は見えているものしか見えない」ということをよく表しているシーンで、観客は複数の登場人物に感情移入しながら、結局、その登場人物の見えているもの、懐中電灯の光が照らされている先しか見えないという、そんな映画に仕上がっています。

脚本をご担当された坂元裕二さんは、原案・脚本発想のきっかけをこうおっしゃっている。「車を運転していた時、信号が青になっても前のトラックが動かない。クラクションを鳴らしても動かない。ようやく動いたと思ったら横断歩道に車いすの方がいて。トラックの後ろにいた坂元さんは、それが見えず、クラクションを鳴らしたことを後悔した」と。これちなみに偶然にも坂元脚本作のドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』でも同じようなシーンがあったと確か記憶していますが、ともかく「生活の中で見えないこと。自分が被害者だと思うことに人は敏感だが、自分が加害者だと気付くのは難しい」と坂元さんの言葉通り、この『怪物』は被害者かと思っていた人物が、「無意識の加害性」「無意識の加害者」になって、加害者かと思ったら、被害者でと、観客を振り回します。

本作のプロダクションノートによると企画自体の発想は「『スリー・ビルボード』みたいな面白い作品」という事だったようで、まさしく『スリー・ビルボード』も被害者遺族の主人公が間接的に加害者になっていくと。物語が進むと被害者と加害者の境界がどんどんと曖昧になる、この感覚。登場人物全員が正しくて、全員が間違っているという世界観は『スリー・ビルボード』的。和製『スリー・ビルボード』として『空白』なんていう作品もありました。『空白』の𠮷田恵輔的世界観とも言えます。

本作の構造について

ただ本作が『スリー・ビルボード』とか『空白」とは似ていながら、また違った鋭さを観客に見せるのは、映画の特殊な構成にあります。本作は三部構成で、同じ時間軸で進むそれぞれのパートで、それぞれ軸となる視点が変わる、ちょっと雑に言うと主人公がそれぞれ変わる。一部では黒澤明監督の『羅生門』から「羅生門型」「羅生門形式」と呼ばれています。ある一つの事件に対して3人の証言者が異なる嘘の証言をする、その違いが証言者のエゴを浮き彫りにするという「羅生門形式」ですが、正確には『羅生門』とは違っていて、『羅生門』は3つの視点が嘘にまみれていて、真実がまさしく「藪の中」真相が分からないというのが作品の肝なので、「羅生門形式」とは個人的には表現しづらいです。

本作では明確に真実がある。3人はそれぞれが真実を言っている。そして観客は美しい真実を目撃する。強いていうなら似ているのは『最後の決闘裁判』でしょうか。1つの事件について、3人の異なる視点で見た同じ時間軸の事件前後が示され、最後には真実が明かされる、この『最後の決闘裁判』スタイルを、日本の郊外、小学校に落とし込んだような。劇中では湊と母親がTVのドッキリ番組を見ている何気ないシーンがあります。母親は演者が引っ掛かっているドッキリを「ヤラセ」と言う。湊は「TVで見ているからそう言えるんだよ」とヤラセを否定する。視点を変えると、ヤラセのように見えるドッキリも本人にとっては「ヤラセ」に見えないかもしれない。視点が変われば認知も変わる。それぞれ視点が異なる三部構成、3つのパートが、我々、観客に坂元さんが体感した後悔のような自分の想像力の貧しさ、限界を痛感させます。

『羅生門』というよりやはりこれは坂元裕二さんの脚本っぽい、ドラマっぽいなと観ながら感じて、舞台、物語設定が提示された後、それぞれ1話ごとにそれぞれのキャラクターの背景・過去が明かされるドラマ的な物語構成。3人の異なる視点は、『羅生門』のようにそれぞれのキャラクターのエゴを浮き彫りにするというより、それぞれの痛みと感情移入できる背景を浮き彫りにする。何でしょうか。最近の『大豆田とわ子と三人の元夫』でも1話ごとにそれぞれの3人の主人公の元夫の性格、背景と恋愛模様がじっくり描かれる。その3話をギュッと2時間の映画に凝縮させた映画のようにもこの『怪物』は見えます。

脱衣所に散らばった髪の毛、泥の入った水筒、「普通の家族」という言葉、作文の誤字。「怪物」が指すもの。同じモチーフ、同じセリフが、三部それぞれの別の視点では全く別の意味を持つ。これも坂元裕二さんのお得意のセリフ・モチーフ使いで。ドラマ『カルテット』の「唐揚げにかけるレモン」が代表例でしょう。非常に坂元脚本的。坂元裕二さんが脚本を担当した映画『花束みたいな恋をした』のイヤホン。イヤホンが2人を繋げるものであり、2人を隔絶、孤立させるものにもなる。同じ曲を聴いていても右と左で聞こえる音が違う、2つの視点(“聴”点?)、RとLが揃って初めて同じ曲を聴いたことになる。「花束」は恋人同士のディスコミュニケーション、すれ違いが分かりやすくモノローグベースで語られた映画でしたが、本作はこの恋人2人を3人+αにした、やはり『羅生門』と本作は大きく違っていて、本作『怪物』はこの「羅生門形式」を決してミステリーに利用している訳ではなく、あくまで本作は3人のすれ違いと認知のズレを三部構成にした作品とも言えると思います。ある意味では「羅生門形式」の発展系に位置する作品です。

見事なコラボ作

こういった坂元作品としてのテイストも感じながら、同時に是枝作品的でもあるというのは冒頭でも申し上げました。僕は『怪物』観る前は、映画というフィールドなのでちょっと是枝監督の色が強くなるんじゃないかなと、コラボレーションと言いながらどちらかがどちらかを食ってしまうような作品になるかとも想像していましたが、実際はそんなことはなく、『怪物』は坂元裕二脚本の新作としても、是枝監督の新作としても観ることができる、食い合っていない。2人が2人共、お互いのフィールドに寄り添ながら、是枝監督作としても寓話的で強固な物語の新しい色の作品になっている、2人が2人共、お互いの作品世界を衝突ではなく融和させてネクストステージに行っている感覚がありました。

コラボレーションとしては大大大成功という印象です。このコラボ大成功の要因はそもそもお二人共の作家生の親和性の高さが大きいかと思います。お二人共「白でもなく、黒でもなくグレーな世界を記述する」これは是枝監督の書籍「映画を撮りながら考えたこと」からの引用、監督のお言葉ですが、「灰色の世界」を描くお二人。本作も被害者・加害者、単純な二元論に落ち着かない、徹底的にグレーな世界を映画は進行していきます。そして社会からはぐれた社会的弱者を描く、特に坂元脚本作では2010年代以後でしょうか。「プロフェッショナル 仕事の流儀」で語っていた「マイナスにいる人がゼロになる作品を目指している」という坂元さんの創作の動機は、是枝作品にも通じます。

加害者遺族と被害者遺族との対話を描いた『それでも、生きてゆく』は、加害者家族を主役にした是枝監督作『DISTANCE』とシンクロしますし、シングルマザー、貧困家庭、時に犯罪を犯してしまう登場人物を主人公にする。最新作のドラマ『初恋の悪魔』では『万引き家族』的な疑似家族のモチーフもありました。例を挙げたらキリが無いですが、お二人共似ているモチーフを描いてきた、故にお二人のユニバースが衝突せずに、この『怪物』として上手く溶け合っているという事だと思います。坂元作品的な「物語」から、是枝監督作的な「描写」に展開していく映画に僕は見ました。

ということで、作品のテイストと物語構造、見事なコラボ作という点だけ、本当にさわりだけですね、ここまででは何も言っていないのに等しい感じがありますが、ここからは宣伝以上の物語にガンガン触れていきますので、そういった情報をお聞きになりたく無い方は、本編ご鑑賞後にお聴き下さい。

!!以下は本編ご鑑賞後にお読みください!!

それぞれの「怪物」

『怪物』のディスコミュニケーションを浮き彫りにして3人の痛みを観客に共有する三部構成。具体的に1パート目は、主人公・湊の母親の視点。彼女は「わたしが今話しているのは人間?」と声を荒らげます、彼女にとっての「怪物」は息子への体罰について誠実な対応をしてくれない、「怪物」というよりロボットのような小学校の体制。

2パート目は保利先生が主人公。教師にとってのモンスターは劇中でも「モンスター・ペアレント」という言葉が出ます。保利の先輩教師は湊の母親を怪物と言う。一方、保利にとっては小学校を守るために自分を切り捨てた校長、最終的には世間が「怪物」のように保利を追い詰めていくと。

3パート目、ようやくこの『怪物』という映画の主人公・湊の視点になる。彼にとっての「怪物」、それは自分の中に生まれた言葉にしようのない感情、セクシュアリティ、これを「怪物」と呼んでいると。「羅生門形式」という意味では、本作で唯一、嘘をついているのは湊で彼にとっての「怪物」を押し殺すために嘘をついていました。三部構成、それぞれの視点で語られるそれぞれのパートで、映画のタイトル「怪物」の意味がそれぞれ異なるという、とても言葉の使い方が美しく、実に坂元脚本的な構造の映画だと思います。

撮影について

どうしても監督と脚本の話ばかりになってしまうのですが、本作は撮影も素晴らしく、撮影監督は是枝作品では『万引き家族』、ドラマ『舞妓さんちのまかないさん』に続いて近藤龍人さん。『万引き家族』の闇使い、夏のじめっとした湿度を観客に伝える撮影も素晴らしかった。本作も凄まじく、3つのパートそれぞれでルックが変化していくという、1パート目母親の視点は基本的に色彩を欠いた、モノクロに近いようなルックで、2パート目保利先生の視点でようやく青色シャツの色、金魚の赤色がスクリーンに差し込まれるようになる。3パート目湊の視点は今までのパートと比べものにならないほどに草木が光り輝く、明るいルック、どこか寓話的なおとぎ話のような映像になっているという撮影の構成もコントロールされていました。

とても印象的なショットがあったのは2パート目、保利先生にとっての「怪物」の姿が明らかになるシーンで。追い詰められた保利が小学校の屋上に行く、片方だけ靴を履いて、屋上から飛び降りようとすると、街と諏訪湖ですかね?大きな湖が見える、目の前に大きく広がる街並みと対峙する保利。その時、どこからか管楽器のブオーンブオーという音が聞こえて、まるで世間が、街が、怪物のように吠えているような描写がありました。本当に素晴らしいショット。しかもこの街が吠えているという描写は実は脚本に無いんなんですね。今回、坂元裕二さんが書かれた脚本・最終稿が発売されていて、実際の出来上がった映画と脚本を比較してお楽しみ頂けますが、脚本には「どこからかホルンの音が聞こえてきた。なんとなく聴き入ってしまう。」とだけの記述で、世間という「怪物」を撮影と演出で明らかにするという見事なショットでした。

本作の元ネタ説

本作『怪物』の3人の視点で描かれる三部構成について、もちろん『羅生門』は参考にしたと思いますが、個人的にここから発想したのではないかという元ネタを想起しまして、それがメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」です。もう説明不要の超古典、ゴシック・ホラー/SF小説ですが、この「フランケンシュタイン」も3人の視点から描かれるんですね。

「なぜフランケンシュタインなのか?」というと、まず公開前にこの『怪物』というタイトルを聞いて、僕は映画史上最も有名な「怪物」名前のない「フランケンシュタインの怪物」を思い出しました。というのも是枝監督は2012年にお気に入り映画を挙げていて、その内の一本が映画化された『フランケンシュタイン』。本作のプロモーションで是枝監督が俳優の吉岡里帆さんと対談していまして、そこで知ったのですが、是枝監督本当にこの「フランケンシュタインの怪物」が大好きなようで、仕事場に60体くらいフランケンシュタインの怪物のフィギュアがあるらしいです。どんな職場だよと。最高かよと。

監督は『空気人形』という人造人間の映画も撮っていますが、本作の脚本、最終稿を見ると、この『怪物』の冒頭で何と「フランケンシュタイン」の名前が登場するんですね。湊と母親がベランダで火災が起きている駅前の雑居ビルを眺めながら、湊が母親に質問をする「豚の脳を移植した人間は?人間?豚?」劇中最も印象的で重要なセリフですが、その質問に対して母親は「人間じゃないでしょ」映画はここでセリフが切れていると記憶していますが、脚本では続きがあります「人間じゃないでしょ。なんだっけ。フランケンシュタイン」。厳密にはフランケンシュタインは怪物を作った博士の名前なので、母親は「人間じゃないでしょ。フランケンシュタインの怪物」と言いたかったのでしょう。坂元裕二さんは『怪物』というタイトルは「フランケンシュタイン」から取ったのは間違いがないと思います。

映画では切れているか、サイレンでセリフが聞こえないのか、「フランケンシュタイン」というワードは出ませんが、逆に脚本にない湊がCTスキャンをする様子を映したショット、これは「フランケンシュタインの怪物」どちらかというと『フランケンシュタインの花嫁』の有名なショットと重ねられます。『フランケンシュタイン』で重要な舞台として湖が登場しますが、本作では諏訪湖が舞台の中心として「世間」という怪物の口のように象徴化され登場します。『フランケンシュタイン』の有名な民衆が建物に火をつけるラスト、炎上する建物は、本作での冒頭、何度も途中挿入されると、偶然というには多すぎる『フランケンシュタイン』との似ている点を見出すことができます。

坂元裕二さんは是枝監督が『フランケンシュタイン』がお好きだから、脚本にエッセンスを入れたのか、これは謎ですが、ある種、現代日本版『フランケンシュタイン』として本作『怪物』を構成したと思います。もっと言うと、是枝監督がお気に入り映画に挙げている映画『フランケンシュタイン』の監督ジェームズ・ホエールは当時のハリウッドでは珍しくゲイを公言していました、これは『ゴッド・アンド・モンスター』という映画にもなっています。よってこれは一般的な解釈ですが、「怪物」として民衆に迫害を受けるフランケンシュタインの怪物に、ジェームズ・ホエールは自身のセクシュアリティ、ゲイとしての自分自身を重ねたと、本作が性的マイノリティを扱った映画でもある事とも繋がってきます。

本作への批判について

「怪物」の元ネタメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」はとても複雑な構造の小説で、ある男の手紙がそのまま小説になったいわゆる「書簡体小説」、ある男の視点が視点1、視点2つ目はその男の語りの中でのフランケンシュタイン博士の視点、視点3つ目はその博士の語りの中での博士が作った怪物の視点と、超絶複雑な入れ子構造の小説ですが、3つの視点で構成されていることには変わりありません。

本作『怪物』に置き換えれば、視点1が創造主と遭遇した男・保利先生、視点2が創造主たる母親、視点3が自身を「怪物」と言い、心を押し殺す湊と言った具合でしょうか。少しお話が飛躍してしまいましたが、観客はこの3つの視点それぞれに感情移入させられながら、それぞれの痛みを共有させられます。重ねてになりますが「羅生門形式」と呼ばれている三部構造は、『羅生門』にあったミステリー、ミスリード以上に、当事者の痛みを観客に共有する効果を強調します。

特に1パート目、2パート目で何気なく発せられていた悪意のないセリフが3パート目で湊を傷つけていたものだと判明し、心が引き裂かれるような思いをしたのは僕だけではないと思います。少し補足しなければいけないのは、本作の公開にあたって特にLGBTQ+当事者の方々、論客の方々から批判が挙がりました。概ね、本作の宣伝サイドの姿勢が不誠実だったという事ですが、僕は本作を試写で観ていないので詳細は言及できません。いずれにせよ性的マイノリティである登場人物のセクシュアリティを物語的なギミックとして、ある種のどんでん返しに利用してきた映画の歴史があります。僕は本作は決してギミック的に湊のセクシュアリティを扱っていないとは感じましたが、「羅生門形式」と呼ばれている構造を採用した結果、ギミック的に消費していると見えるのも分かります。

本作のテーマの一つは「人は想像できることしか想像できない」である分、そういった批判は真摯に受け止めて見ました。冒頭で「美しいと思ってしまいました」と若干の後ろめたさを込めて表現したのは、湊と他の登場人物とのディスコミュニケーションが明確になった時に感じる感情は、あくまで僕が当事者ではないマジョリティだからこそ感じられた事だとも思ったからです。この『怪物』は、かなり生々しいイジメの描写を含んでいる分、当事者に向けて作っている映画には決して思えません。ただ本当に現実にある痛みと比べると僅かなものだと思いますが、湊の痛みをマジョリティである観客に伝えるパワーはこの映画にあると思います。

複雑な登場人物

真摯に受け止めたい悪意のないセリフは、母親が車を運転しながら発した「普通の家族でいい」という言葉。「普通の家族って何?」。悪意なくテレビに写るゲイタレントのモノマネをする母親。無意識の加害性。保利先生が何度も言う「男らしくないぞ」という言葉。「男らしさって何?」。湊は車の中で母親に向かって「お父さんみたい(になれない)」と言いますが、母親は「お父さんみたい」だけを聞き取って、耳に傷を付けた湊とラガーマンで生傷が絶えなかった亡き父を重ねてしまう勘違い。ディスコミュニケーションの映画である『怪物』を強調するシーンです。

母親がいじめだと思っていた「泥の入った水筒」も、脱衣所で切った髪の毛も全て意味を持ってきます。特に湊が脱衣所で髪を切ったのは、星川くんが触った所を切って、自分の心の中にある自身が「怪物」と呼ぶものを押し殺そうとする動作と知ると心が押し潰されます。母親に「近況を報告しな」と言われて、母親が部屋を去った後にお仏壇に向かって湊が言った言葉は「何で生まれたの?」「何で生まれてきたの?」自分を産んだ父に自分が生まれた理由を問う、心を打つセリフですが、これもメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」の引用でもあります。

「フランケンシュタイン」の冒頭は怪物が読んだ書籍「失楽園」の引用から始まります。「創造主よ。私を土の塊から人の姿に創ってくれと頼んだことがあったか?」。セリフやモチーフの意味が視点が変わると逆転する体験は、湊視点だけではなく、保利先生にも起こり、あれだけ1パート目で非常識だと、おそらく皆さんを苛立てた、謝罪中に舐めた飴も、実は恋人から気持ちを抑えるためにと渡されたものだと2パート目で分かる。保利先生もまた街で「ガールズバーに行っている」と根も歯もない噂を立てられている決して1パート目で観客が想像するような悪い人物ではないように見える。書籍や雑誌の誤表現・誤字を見つける保利の趣味は彼の真面目すぎる性格、正しさしか認めないようなキャラクター性を分かりやすく表現していますが、その真面目すぎる性格が星川の作文の鏡文字に辿り着き、一番最初に湊の心の傷に気付く人物となります。逆にあれだけ良い父親だと思っていた、湊の父はどうやら女性と不倫をしている間に事故にあったと分かったりと、観客に登場人物を善悪二元論で安易に判断させることを拒否する映画です。

最も観客を揺さぶるのは小学校の校長先生だと思います。また校長先生を演じる、坂元脚本作ではお馴染みの田中裕子さんの存在感が凄まじく、一貫して坂元脚本作で良い母と悪い母どちらでもある存在を演じてきたのが田中裕子さんだと思いますが、その路線の究極系、目は優しいんだけど黒目が大きくロボットのような淡々とした口調は、優しいけど怖い、悪い人だけど良い人にも見えるという、観客の善悪のジャッジを簡単にさせない登場人物を見事に演じています。あれだけ1パート目、2パート目、どちらにおいても「怪物」でしかない校長先生が3パート目で、唯一、湊の心の痛みを和らげてくれる大人として登場する。「しょうもない。しょうもない。誰でも手に入るものを幸せって言うの。」そして心の叫びを管楽器に込めたその音が、保利先生の飛び降りをも止める。良い人にすら見えてしまうという。人は想像できることしか想像できないだろ、と観客に分からせる、自分一人のTLでは決して人一人をジャッジすることはできないと最も観客の視点を揺らがせる存在だったと思います。

ラストについて

3パート目は先ほども言ったように映像的にはほとんどおとぎ話のような美しさと瑞々しさを帯びてきます。2パート目は緻密な会話劇でどちらかというと坂元脚本的なのですが、3パート目はこれまで子供を主役にして映画を何作も撮ってきた是枝作品的。『誰も知らない』、特に『奇跡』という作品と似ています。『奇跡』は新幹線がすれ違った瞬間に願い事が叶うと噂を聞いた子供たちが、その奇跡を信じて子供だけで旅に出る。本作の湊と星川が「生まれ変わり」を信じて、廃車両に2人だけのユートピア、楽園を作っていくという展開に非常に似ていて、また是枝監督お得意の子役演技演出の上手さによって生み出された湊と星川の関係性はとびきり美しいものです。湊が星川くんに靴を貸してあげて、二人でケンケンする様子を映したトラッキングショットで僕は涙出てしまいました。

少し『奇跡』と異なるのは本作の星川くんは子供ではなく大人ですよね。少なくとも大人として撮っています。湊の髪をファサッと触る仕草、二人の肉体的接触があった時に思わず湊の身体が熱くなる、その時の「大丈夫。僕もそういう時ある」というあのセリフ、言い方。完全に大人として撮られている星川くんが、湊を導く、とそんな関係性になっているように見えます。台風が大人たちを吹き飛ばし、残された子供たちの関係性が頂点を迎える。坂元裕二さんが敬愛する相米慎二監督の『台風クラブ』でしょうか。台風の夜、動くはずのない車両が動き出す。実際は土砂崩れで横転しただけですが、彼らの行手を阻んでいた柵も吹き飛び、湊と星川くんは二人だけの楽園のその先に向かうことができる。躍動するカメラ、坂本龍一さんの美しいスコア、全てが重なって純度の高い感動を生みます。

映像的には余りにも非現実的なので、2人が死んでしまって死後の世界が映像になったと思った方もいらっしゃったと思います。僕は『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』のラストだと思いました。気になる方は比較してご覧になってみて下さい。子供たちが目の前にしている悲痛な現実に対して、映画が魔法をかけてあげる。脚本の最終稿にはこうあります「走る二人。嬉しそうに笑う。保利と母親の二人を呼ぶ声が背後から聞こえた」脚本だとここで2人の大人が湊と星川くんを呼び止めるんですね。しかし「また走り出す」と、大人2人を拒絶して、湊と星川くん2人だけの世界に行くと。

『怪物』は2人に「生まれ変わらなくていいんだ」と言ってあげるんですね。「生まれ変わらなくていい」「そのままでいいんだ」と。 大人のいない2人だけの楽園を用意してあげる。映画は嘘をついてもいいんですね。辛い現実に2人を戻らせず、映画がちょっぴり嘘をついて2人だけの楽園を提供してあげる。このおとぎ話感は、今までの是枝作品にないバランスだと思いました。見事なコラボレーション、そして途轍もなく美しい映画だったと思います。今週の新作は『怪物』でございました。

【作品情報】
『怪物』
2023年6月2日(金)公開
© 2023「怪物」製作委員会


茶一郎
最新映画を中心に映画の感想・解説動画をYouTubeに投稿している映画レビュアー

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