【読書亡羊】『土偶を読む』騒動を知っていますか 縄文ZINE編『土偶を読むを読む』(文学通信) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!

各メディアで絶賛された「あの本」

『土偶を読む』騒動をご存じだろうか。

独立研究者である竹倉史人氏が晶文社から出版し、メディアから学術界までの話題をかっさらっている『土偶を読む』(晶文社)を巡る議論である。

『土偶を読む』は、「日本考古学史上の最大の謎が、ついに解き明かされた!」との触れ込みで、縄文時代の土偶のモチーフが栗やトチの実などの植物にあると指摘。これまでの「女性や出産をかたどったもの」「宗教や祈りの対象」という通説を覆す驚くべき内容だ。表紙からも分かるように、土偶とモチーフとなった植物を並べ、「確かに似ている!」という直感にも訴える作りになっている。

単に「確かに似ている!」「面白い!」というだけなら騒動にまでは発展しなかった。しかし『土偶を読む』はNHKや朝日新聞などの大メディアで紹介され、さらには養老孟司氏や中島岳志氏、縄文好きで知られるいとうせいこう氏など、各界の読み手巧者からも歓迎された。

しかも評価の理由は単に「面白い!」というだけでなく、『土偶を読む』が既存の考古学会、学術界に正面切って論争を仕掛けた形になっているからでもある。筆者の竹倉氏が美大を経て東大で宗教学を学んだ人類学者であるという経歴も手伝って、「新たな発想で、凝り固まった考古学に新風を吹き込んだ」というわけだ。

当然、本も売れに売れ、現在は六刷。続いて写真がメインの『土偶を読む図鑑』が小学館から発刊され、小学校の図書館にも入るなど、読者層を広げている。

さらには『土偶を読む』は、何と2021年にサントリー学芸賞まで受賞するに至る。言うまでもないが、「学芸」と謳ってはいるがこれまで「芸」より「学」の部分が評価されてきたことは間違いない。いわば『土偶を読む』は学術的お墨付きを得た格好になったのだ。

「話題書」を徹底検証した一冊

ところが、本書には発刊当時から疑問符がつけられていた。曰く、これまでの土偶研究の成果を無視している。学術界に喧嘩を売りながら、都合よく学術的研究成果を切り貼りして、自説の補強に使っている、と言ったものだ。見た目が似ている、という結論ありきで論を組み立てているため、全体でみると論が破綻している……など、読む人が読めば疑問だらけだったという。

そうした「疑問」を一冊にまとめ、『土偶を読む』を徹底的に検証し、さらに現在の縄文研究、土偶研究にスポットを当てたのが縄文ZINE編『土偶を読むを読む』(文学通信)だ。

編者名になっている縄文ZINEは、縄文にまつわるフリーペーパーのタイトル。國學院大學の博物館などで配布されており、無料とは思えない洗練された作りと、溢れんばかりの縄文愛に定評がある冊子(ZINE)だ。

編集長は、本書のメイン論文である〈検証 土偶を読む〉の執筆を担当している望月昭秀氏。望月氏の本業はデザイナーだが、縄文に関する著作があり、『土偶を読む』について当初から一貫して疑問を呈してきた人物でもある。

そう書くと、「デザイナーが、独立系とはいえ研究者を検証?」と思う向きもあるかもしれない。だが、本書を読めばそうした認識も一変するだろう。「一体、縄文や土偶についての本当の『研究者』とはどちらを指すのだろうか」と思わずにはいられなくなるのだ。

「恣意的な資料の選択」

本欄には土偶の写真を掲載できないので、詳しくは本書をお読みいただくしかないのだが、特に驚いた事例を一つ取り上げたい。

それは『土偶を読む』で表紙にも「栗にそっくり!」(シャレではない)と掲載されている、中空土偶についてだ。

並べてみれば、確かに栗に似ているように見える。ちょっと尖った頭に、楕円形の輪郭。「縄文人が主食としていた栗をかたどった」と言われれば、「確かに身近なものをモチーフとして取り入れることはあるかも」と感じてしまう。

ところがこの土偶、実は上から見ると大きな穴が二つ開いている。なんとこれは、頭にラッパのようについていた突起が取れたものだと推測されているのだ。というのも、顔つきまで「栗土偶」にそっくりの、突起のある別の土偶が存在しており、「栗土偶」もその類型で本来は突起があったとみられているというのだ。

当然、突起のある土偶は、栗には全く似ていない。「中空土偶は栗がモチーフ」とした竹倉氏は、こうした類似の(しかし突起のある)土偶を知らなかったのだろうか。

『土偶を読むを読む』の望月氏はこう述べている。

(突起のある)類例を知らなかったというのであれば、明らかな調査不足で、もし知っていて触れなかったのだとしたら、あまりにも恣意的な資料の選択、写真の比較と言えないだろうか。

『土偶を読む』で竹倉氏が「土偶は植物モチーフであることが明らかになった!」として挙げた事例は、事程左様に牽強付会、悪質な我田引水によるものばかりだという。

土偶を正面からしか見ていない、土偶が作られた時期にその植物は食用にされていない(生えていない)など、竹倉説を覆す材料がいくらでもある。

こうした材料まで考慮して、反証材料があって初めて、論は論として成り立つ。だが、竹倉氏がこうした指摘に反証材料を提供している節はない。

「まあまあ、いいじゃないか」では済まない理由

「縄文人は植物を信仰し、その形を土偶にモチーフとして入れ込んだ」とするアイデアは面白い。「縄文エッセイ」であれば、想像力を掻き立て、縄文人に思いを馳せるきっかけにはなりえるだろう。

しかし問題は、学術的お墨付きまで得た竹倉説がむしろ「定説」となり、これまでの学術的積み重ねによって解き明かされてきた縄文人のあり方、土偶の意味合いが否定されかねないところにある。

竹倉説否定論に対しては、当初から「まあまあ、そんなに目くじら立てなくても」とか「夢があっていいじゃない」「縄文を知るきっかけになればいいのであって、学術的信憑性は誰も気にしてないんじゃないか」というような批判もあった。

そもそもすでに滅亡している縄文人が「植物をモチーフにしたのではありません」と否定することはないし、当然文献もない。しかし、「だからいいじゃないか」ということはならないだろう。

『土偶を読むを読む』を読めばわかるように、竹倉説の問題は〈自説に合うように考古学的事実を改変している〉(岩手県立博物館の金子明彦氏)ことにある。

そして、『土偶を読む』と『土偶を読むを読む』から読み取るべきは、学術批判、専門知軽視といった観点のみならず、いわば「物語の怖さ」だろう。

本書でも東京都立産業技術大学院大学の松井実助教が〈物語の語り手を絶対に信用するな。だが私たちは信用してしまう〉と題して、「面白さ、分かりやすさ」に惑わされずに検証する「学術の民」のあるべき姿を説く。

「物語(ナラティブ)の力」――これは昨今、問題となっている陰謀論やフェイクニュース、安全保障における「認知戦」の領域にまたがる現代的一大テーマでもある。

土偶・青森県亀ヶ岡遺跡出土(重要文化財・東京国立博物館所蔵)

事実と検証を積み重ねてこそ

土偶と言えばこれ、というほど有名な遮光器土偶を、「宇宙人がモチーフだ」と言えばオカルトで月刊『ムー』の世界だが、「里芋がモチーフだ」と言えば、学術的評価まで得た新たな発見になってしまう。

後者の提唱者である『土偶を読む』の筆者・竹倉氏からすればこの二つを一緒にされるのは心外だろう。

だが、後者について「客観的に検証できる裏付けがない」「むしろ、現在判明している縄文時代の植物分布や縄文人の食料事情からは否定される」以上、この二つを隔てる壁は極めて低い、ということになってしまう。

土偶に限らず、世の中には、客観的に検証しうる事実を積み上げて一つの論を導き出して提唱する人と、一つの説やストーリーを流布したいがために無数の事象から都合のいい点だけをつまみ、勝手に線をつないで「さあどうだ」と世に問おうとする人がいる。

もちろんどんな意見も表明する自由はあっていいが、それを「学術的である」とか「ジャーナリズムである」と言い出せば、話は変わってくる。

「面白さ、分かりやすさ、我が意を得たり、の『快感』が得られる物語」に惑わされずに、小さな事実を一つ一つ積み重ねながら実態を解き明かす作業。当然、しんどい作業だが、学術もジャーナリズムも、つまるところそうした地味な作業からしか、事実は浮かび上がってこないのだ。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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