78年を迎える日立空襲、語り継ぐ 日製工場の壕跡に資料館 社員黙とう 茨城

遺書や爆弾の破片、犠牲者の名簿などが並ぶ資料館=日立市幸町

太平洋戦争中の日立空襲から10日で78年を迎える。激しい爆撃で従業員634人が犠牲となった茨城県日立市幸町の日立製作所海岸工場(現日立事業所)では、戦争の歴史や悲惨さを語り継いでいこうと、防空壕(ごう)のあった台地の上に新たに戦災資料館が完成。9日には同事業所で戦災慰霊行事が行われ、社員が犠牲者に黙とうをささげた。

軍需工場となった同社海岸工場には1945年6月10日朝、100機を超える米軍の爆撃機「B29」が来襲。工場内だけで500発以上の1トン爆弾が集中投下された。一瞬にして工場は廃墟となり、634人が亡くなった。

空襲時、社員の多くは、高さ約20メートルの台地を利用して設けられた横穴式の防空壕へ避難していた。延長約1.5キロの大規模な地下壕だったが、二重三重の爆撃で地盤が崩れ落ち、多くが生き埋めになったという。

戦災資料館は5月、この台地の上に開設。戦後は「聖地」として慰霊塔をまつり、記念館の建設や植樹が進められてきた特別な場所だ。これまで資料を展示していた旧小平記念館の機能が2021年に同市大みか町の日立オリジンパークに移ったことから、戦災に関する資料については被災事業所で受け継ごうと、同社が資料館を整備した。

資料の中には、防空壕で生き埋めになったポンプ製作課の岩間正二さんが、暗闇の中で書いた遺書もある。約4カ月後に発見された際に左手に握っていた実物の手帳で、「タバコガ吸ヒタイ」などの文字がうっすら残る。息子に向けて描いたとみられる汽車の絵を含め、展示では全文紹介している。

このほか、1トン爆弾の破片や特設防護団が当日使っていた双眼鏡、日誌など多数の実物資料を展示。被災直後の工場の写真に加え、空襲とその後の艦砲射撃、焼夷(しょうい)弾攻撃による犠牲者751人の名前が書かれた名簿も並ぶ。

同事業所内には現在も市内唯一の1トン爆弾痕が保存されている。戦災資料館は従業員と遺族向けの施設だが、同社は今後、市内小学生の校外学習などを受け入れ、戦争の歴史を伝えていく方針。

「戦災の日」を前に日立事業所では9日、隣接する三菱重工業日立工場も含めた社員約5千人が、空襲が始まった時刻と同じ午前8時51分に黙とうをささげ、平和を祈った。同事業所の根本充さん(39)は「困難な時代を乗り越えて今がある。先輩たちの思いを伝え続けていきたい」と語った。

© 株式会社茨城新聞社