賛否両論「シン・仮面ライダー」“昭和ライダーありき” じゃない視点で語ってみた!  息つく暇なく、ごく自然に引き込まれる “ライダーの世界”

ロス感が半端ない!「シン・仮面ライダー」

先日、映画『シン・仮面ライダー』(監督:庵野秀明)5度目の鑑賞を終えた。まだまだ観足りないが、おそらくこれが最後の劇場鑑賞かと思うと、ロス感が半端ない。

過去にも映画や舞台にハマり、同じ作品を繰り返し鑑賞したことは多々あったが、今回のように観れば観るほど深く好きになっていく作品は稀有だ。

本作の鑑賞者のうち、古参のライダーファンにはありがちなことと思うが、初見時は小難しいセリフを聞き逃すまいとか、原典リスペクトネタを見逃すまいということに気を取られていた部分があった。しかしながら回を重ねるうちに、そういった視点を抜きにして純粋に作品に没頭できるようになり、“好き度” が高まっていった気がする。

これまでにもこの場では本作に関し何度か書かせていただいたが、今回は「昭和ライダーありき」ではない視点で、令和の世に産み出された、独立した作品として純粋に「シン・仮面ライダー讃」を記してみたい。

「シン・ウルトラマン」との共通点とは?

これは同じく庵野監督が携わられた『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』とも共通することだが、本作も冒頭からいきなり物語が全力疾走しはじめる。ショッカーの基地から脱走してきた本郷猛(演:池松壮亮)と緑川ルリ子(縁:浜辺美波)は、暴走トラックの追跡を振り切るべく、二人乗りでバイクを疾走させる。

その後の展開も――

クモオーグに捕獲されるルリ子→ショッカー戦闘員と戦いルリ子を救うライダー→本郷を改造した緑川博士(演:塚本晋也)との再会→クモオーグの急襲→緑川博士の死→ライダーとクモオーグの戦い→ライダーの勝利

――までの疾走感は、正に息つく暇もなく、観客はごく自然に、「シン・仮面ライダーワールド」に引き込まれてゆく。

パンフレットによると、冒頭からここまでは「幕前〜第1幕」と表現されている。

すなわち冒頭のカーチェイスは、まだ舞台の緞帳が上がる前に、客席にトラックとバイクが乱入し観客を驚愕させ、ライダーとクモオーグの戦いのあたりでやっと緞帳が上がり、舞台上で作品本編の第1幕が正式にスタートする、というイメージであろうか。

その後もショッカーが送り出すオーグメントが続々登場。それはまるでオムニバス映画のように見せ場ばかりの連発で、もはや「起承転結」などというものではなく、冒頭のカーチェイスを「起」とするならば、「起承承承承承承…」、あるいは「序破急」ならぬ「序急急急急…」ともいうべき展開である。

ヒーローとしての強さとスピード感、そして今回の新基軸とは?

本作は一部シーンの描写が災いしてか「PG-12」に指定されてしまい、ちびっ子が観る映画ではないというイメージがついてしまったが、もしちびっ子が本作を観ても、決して退屈して映画館の通路を走り回るようなことはなかった筈だ。

緑川博士曰く「組織が開発した昆虫合成型オーグメンテーションプロジェクトの最高傑作」であるバッタオーグ=仮面ライダーは冒頭からしばらく、敵との戦いにおいても苦戦することがほとんどない(唯一接戦と言えたのは仮面ライダー第2号との戦いぐらいであろうか)。

ゆえにバイクを駆るヒーローとしての強さとスピード感、そしてその全てを総合しての格好良さは申し分なかったが、今回の新機軸としては、自らの強さ=殺傷能力を抑えかねる自分に対して苦悩する部分が挙げられようか。

強過ぎるライダーが戦闘員をまるで丸太ん棒のようになぎ倒してゆくその描写によって「PG-12」に指定されたとも言えるが、本作においてその表現は避けて通れなかったものと思われる。

本郷にとって、「強さ」を持たないことは文字通り「無力さ」そのものであり、かつてそのせいで肉親を喪うことになった本郷だからこそ、それを知る緑川博士はバッタオーグへの改造を本郷に施したのだ。

「幸せ」「幸福」というキーワードの本当の意味とは?

本作においては「幸せ」、「幸福」というキーワードが再三語られる。

ルリ子は本郷に言う。「『辛い』という字に横線を一本足せば『幸せ』という字になる。幸せなんて辛さのすぐ近くにあるものよ」。

本郷にとって「強さ」を手に入れたことは「幸せ」なことだった筈だが、圧倒的強さで勝利を収めた最初の戦いを終え、本郷は「辛い」と呟く。本郷にとって「辛さ」は「幸せ」のすぐ近くにあるもの、だったのだ。

一方で、非合法組織・ショッカーが目指すものも究極の「幸福」である。

ルリ子の兄・イチロー(演:森山未來)は理不尽に母親の命を奪われた過去があり(その点、本郷と似通った過去を持っている)、全ての人間から「力」の源である「プラーナ」を奪い、暴力の存在しない「ハビタット世界」に送り込むことによって「幸福」を構築せんとしている。

それは一見、狂気の所業であるようにも見えるが、一方でライダーも大気中に存在する他生物の「プラーナ」を吸収し、自らの生体エネルギーに変換することによって無敵の強さを発揮しているし、元は人間だったオーグメントをライダーは戦いによって次々に葬っている。それはある意味で理不尽な行為ともいえる。

翻って、考えてみれば我々大多数の人間は皆、他生物の肉を食らって生きているのではないか。人は誰かを「辛い」目に遭わせることによってしか「幸せ」になれないのだろうか…

―― とか何とか考え始めると、この作品にはある意味で、庵野監督による「幸福論」という一面があったのかもしれない、という気もしてくる。

若い世代でも楽しめる作品づくりを実践

ストーリー展開に話を戻すと、続く第2幕ではコウモリオーグ、第3幕ではサソリオーグとハチオーグが登場。そして徐々に謎の組織・ショッカーの全貌が明らかにされ、「プラーナ」「ハビタット世界」「パリハライズ」という耳慣れない用語で観客は煙に巻かれつつも、いっときもスクリーンから目を離すことができない。

本作のそういった展開は、制作発表などで庵野監督が公言されていた通り、若い世代でも楽しめる作品づくりを実践した結果と言える。

徐々にルリ子の兄でチョウオーグことイチローの計画がルリ子により語られるあたりから、仮面ライダー第2号・一文字隼人(演:柄本佑)の登場までが第4幕(前編)、ルリ子により洗脳を解かれた一文字が、一旦本郷の元を去るあたりから終幕までが第4幕(後編)、ということになる。

すなわち第4幕の大半はチョウオーグとの戦いに費やされているのである。

“戦うヒロイン” 特筆すべきルリ子の存在

そんな展開において最も特筆すべきは、やはりルリ子の存在であろう。本作でのルリ子の立ち位置は、父親をショッカーに殺された悲劇のヒロイン、などではなく、ショッカーの人工子宮で生まれた生体電算機である。のちに組織を脱出し、兄・イチローの計画を阻止せんとする “戦うヒロイン”、もしくは本郷とはバディともいえる存在であり、考えようによっては本作の主人公とも、狂言回しともいえる存在である。

最初は他人を寄せ付けず誰も信用しない、取っつきにくいクールな女子として登場するが、徐々に観客に「ルリ子、可愛いかも」と思わせてゆく展開が心憎い。

個人的にも「あれ? 可愛いかも」とはじめに思わされたのは、ルリ子の旧友・ハチオーグとの戦いの後、本郷の胸を借りてすすり泣く場面であった。あの “すすり泣き声” は何度観ても(聞いても)グッとくるのだ。

話は前後するが、西野七瀬演じるヒロミことハチオーグも、その最期は哀れを誘った。終始人を喰ったような口調で、旧友のルリ子にさえも憎しみを孕んだ言動を示しながら、最期にはルリ子に「残念、ルリルリに殺されたかったのに」と言い残して絶命する。

恥ずかしながら本作を観るまでこの西野七瀬さんの存在を知らなかった私も、今や少なくともハチオーグを演じている時の彼女のことは大好きである。

ルリ子はその後、第2号ライダー・一文字隼人の登場により、本郷・ルリ子・一文字の三人体制によってショッカーに立ち向かうのかと思いきや、カマキリ・カメレオン(K.K)オーグ(演:本郷奏多)の不意打ちにより、呆気なく命を落とす。「やっぱりルリ子、ぜったい可愛い」と思い始めていた観客の胸は激しく揺さぶられ、“用意周到” なルリ子の “遺言” を見せられるに至り、本郷ならずとも慟哭を抑え難い事態となるのである。

そして一文字は、ルリ子の遺志を継ぐ形で「仮面ライダー第2号」として生きていく決心を固める。一方、ルリ子というバディを失った本郷は、新たに一文字というバディを得て、ダブルライダー活躍編へと展開する。その流れは無理がなく、実に自然で心地よい。

なおこの映画においてベタベタの恋愛は描かれていないが、本郷はルリ子に対し、長く接しているうちに仄かな想いを寄せるようになっていた… とまでは行かずとも、好意を寄せ始めていた、と私は思いたい。

一方、はじめは頑なだったルリ子も、言葉の端々や時折見せる笑顔から、徐々に本郷と一緒にいることへの安心感、そして好意を感じさせるようになる。

さらに言うと、ほとんどルリ子とは接点のなかった一文字も、彼女が着けてくれたマフラーを手にする時、恋情のようなものを感じていたのではないか。

過去から現在において「辛い」ことばかりだったこの三人にも束の間、人並みの「幸せ」な時があったと思いたい。そんなことを思うのも、私が本作を溺愛しているゆえかもしれない。

きっとまた「シン・仮面ライダー」は私たちの元にかえってくる

そして大詰めは本郷ライダー、一文字ライダー、そしてチョウオーグこと仮面ライダー0号による、庵野監督が言うところの「泥仕合」だ。

恥も外聞もなく、子どもの喧嘩のように本能丸出しで三者入り乱れての戦いは、ダブルライダー必死の共闘により決着がつく。

しかしながらその決着とは、ラスボスから奪い取った勝利というものではなく、ルリ子の思いを彼女の兄であるイチローに伝えること、であった。

だからそこにはヒーロー物の最終回のようなカタルシスはないが、兄妹の和解、そして相似た人生を歩みながら対立関係にあった本郷とイチローの和解、というカタルシスがあった。

本郷、一文字、ルリ子のうち、最後に残されたのは一文字ただひとりだった。しかしそのラストは決して暗澹たるものではなかった。

エンディング曲「かえってくるライダー」によって幕を下ろした本作であったが、きっとまた『シン・仮面ライダー』は私たちの元にかえってくると、そう信じている。   最後に。改めて――

仮面ライダーという不滅のヒーローを遺してくださった原作者の石森章太郎先生に、溢れる思いを込めて感謝の意を表します。

カタリベ: 使徒メルヘン

アナタにおすすめのコラム 賛否両論「シン・仮面ライダー」古参のライダーファンが胸アツになった10のトリビア

▶ 映画・ミュージカルのコラム一覧はこちら!

80年代の音楽エンターテインメントにまつわるオリジナルコラムを毎日配信! 誰もが無料で参加できるウェブサイト ▶Re:minder はこちらです!

© Reminder LLC