アフリカに「医」を届ける医師 内戦スーダンの村人たちとの交流秘話

十分な医療設備がなく、マラリアなどの病で倒れていく子どもたちを目の当たりにして、スーダンでの医療活動をはじめた

認定NPO法人「ロシナンテス」理事長・川原尚行(57)が生まれたのは、65年9月23日。八幡製鉄所がある北九州市の田舎町に生まれ育った。

「中学ではバスケ部だったので、高校では青空の下で行うスポーツをやりたいと思い、ラグビーに出合ったんです。まだ中学卒業したての私にとって、高校3年生の先輩は輝いて見えて“こういう男になりたい”って憧れました」

同学年では2人の女子マネージャーも入部。その一人が、妻の佳代さん(57)だった。

「当時のラグビーの選手はノーパンだったので、佳代はよく部室に置いてある部員の汚い下着も畳んでくれるなど、懸命にサポートしてくれました。当時から“かわいいな”って思っていましたよ」

高校は県下でも有数の進学校のため、3年生ともなれば夏前には部活を引退し、受験勉強にシフトする生徒がほとんどだった。

「でもチームは強く、花園大会も狙えるほど。私は高3でも花園を目指して冬まで部活を続けたんです。勉強はいつでもできるけど、高校ラグビーは今しかできないと思って」

花園に出場することはかなわなかったが、ラグビーは多くのことを学ばせてくれた。

「痛い思いをしながらボールを守る。グラウンドにいる15人と控えの選手を含めて、自己犠牲をして成り立つスポーツです」

今、「ロシナンテス」事務所の壁に掲げられている活動理念が《目の前で困っている人を助ける家族の絆と地域の和を大切にする一人はみんなのために、みんなは一人の為に》なのは、ラグビー経験が土台となっているのだろう。

高校卒業後、人の役に立つ仕事をしたいと考え、2浪して九州大学医学部に進学。そのころ元ラグビー部マネージャーだった佳代さんは、広島の大学に通う3年生。

「定期的に北九州に帰省していたし、よくラグビー部で集まるので、そのうちに遠距離交際するように。片道6時間かけて広島に会いに行っていました。帰りは深夜に広島を出発して、朝からの授業に出ることも。とにかく体力はありますから(笑)。

医学部6年生になって卒業するころ、佳代は北九州に戻って特別支援学級の教師をしていたので、医大生の私はヒモみたいなもの。けじめをつけるためにも、卒業を機に結婚することにしたんです」

4月には結婚式が執り行われた。しかし──。

「医師の国家試験の結果は6月に発表されるんです。“もし、ここで不合格なら、家族を路頭に迷わすことになる”と、相当な恐怖感がありました。無事に合格できましたが、いまだに試験に落ちた夢を見たりするんですよ」

こうして川原は外科医として医師人生をスタートさせたのだった。

「とにかく患者さんがたくさんいて、家に帰れませんでした。いつもパジャマ姿の女房しか見られない。久しぶりに早くに帰って佳代の手料理を食べようと、箸を持った瞬間にポケットベルが鳴って、病院に戻ったこともありました」

大きな転機は98年、大学にタンザニアへ赴任する外務省医務官の公募があったことだ。

「卒業してすぐに結婚したので、新婚旅行にも連れていっていませんでした。海外にも行ったことがなかったので、チャレンジしたくなったんですね」

とはいえ、行き先は日本人になじみの薄いタンザニア。佳代さんが当時を振り返る。

「“えーっ!?”って(笑)。でも、そのときわが家には5歳と3歳の子どもがいたから“絶対にうちは選ばれないはずだ”と思って、たかをくくっていたんです。でも、応募したのは2人で、のちに1人は辞退。結局うちが行くことに。まあ、それでもなんとかなるだろうって思って(笑)」

そんな肝の据わった妻がいたからこそ、川原は自分の道を進むことができたのだろう。

■マラリアから女の子の命を救ったことも。数年後、家族に彼女の結婚式へ呼ばれて

在タンザニア日本大使館の医務室で働く医務官として新生活をスタートさせた。邦人が多く、すぐになじむことができた。ゴルフやテニスなど、夫婦の趣味も見つけた。

「食べ物も、現地にはほうれん草がないから、おひたしはクレソンで代用。日本から持ってきた納豆菌と大豆を、熱をもった車のボンネットの上で発酵させて納豆を作ったりもしました。粘りは弱かったけど、そんな経験も楽しかったです」(佳代さん)

1年の予定だったタンザニアでの生活は3年半続き、その後、川原は熱帯医学を学ぶためにロンドンの大学に単身留学。3人目の子どもを妊娠していた佳代さんと子どもたちは日本に帰り、1年ほど別々の生活をしていた。

02年、医務官としてスーダンへ異動することになり、家族は、再び新天地での生活をスタートさせたのだった。

「タンザニアとの違いは、スーダンは内戦中で、日本人がほとんどいないところ。アメリカからはテロ支援国家に指定され、日本も欧米同様に、2国間援助をストップしている状況でした。

しかし、実際に生活を始めると、治安面で怖い目に遭うことはなく、街は活気にあふれ、人懐っこいスーダン人も多くて、生活にも慣れていきました」

医療面においては、現在でも人口の50%以上が2時間以内に医療施設にたどり着けず、40%以上が清潔な水を利用できず、60%以上が十分な衛生設備を使用できないという厳しい状況だという。

「外務省の医務官として視察した医療現場では、コレラやマラリアで死んでいく子どもが多い現状を目の当たりにしました。地方のある病院では患者が収まりきらず、屋外の木の下にベッドを置いたり、一つのベッドで2〜3人が寝ている。別の診療所で子どもの患者のおなかを触診すると、肝臓と脾臓が腫れていました。リーシュマニア症というサシチョウバエが媒介する、致死率の高い病気だったんです」

だが、こうした現状を目の当たりにしても、2国間援助を停止している日本の外務省医務官の立場では、手を差し伸べることはできなかった。

医師である以上、目の前の患者を救いたい思いが募ってくる。迷いながらも、外務省を辞職し、自分が思う医療活動をするという決意にたどり着いた。

佳代さんも夫の決断に賛同した。

「外務省を辞めてお金に困っても、私が働けばなんとかなるとは思って。あんまり考え込んだら行動できなくなりますからね。ただ、上の子が中1になるときだったので、日本の教育を受けさせたいから、私たち家族は日本に帰ることにしたんです」(佳代さん)

川原は06年に「ロシナンテス」を立ち上げ、高校時代のラグビー部の仲間を巻き込み、スーダンでの活動を始めた。

まもなく、東部のガダーレフ州の保健大臣と出会った縁で、医師のいないシェリフ・ハサバッラ村での医療活動を依頼された。

村のリーダーであるハサンさんの家に住み込み、まずは医療設備を整えた。

「これまで外国人はよく通り過ぎていった」

ハサンさんはそう言ったという。

「最初は信頼されてなかったと思います。でも、ハサンと寝食をともにし、医療機材や木のベッドを運ぶよう役所に陳情に行くうちに、徐々に信頼関係が深まっていったんです」

診察、検査、救急車の運転など、1人でこなした。時間があれば村を歩き、村人と一緒にお茶を飲んだり、車座になって食事をした。

やがて村に溶け込み、いなくてはならない存在となっていった。

「10代の女の子が夜中遅くに急患で運ばれてきたのですが、脳性マラリアでした。命が危なかったのですが、医師がいたからこそ助けることができたんです」

女の子の家族は、その恩を忘れなかった。数年後のことだ。

「娘が結婚式を挙げるんです。先生、ぜひ、参列してください」 「苦しくてゆがんだ顔を覚えているけど、すごくきれいなお嫁さんになったね」

そんな再会を喜んだ。

さらに川原は、水の問題にも取り組んだ。

「下痢を訴える患者が多いのは、川の水を飲んでいることが原因。しかも川で子どもが流されて、亡くなる事故も。そのため村にある古井戸を改修しました」

将来、看護師になる人材が欲しかったが、看護学校の前に、小学校の教育も満足に受けられる環境ではなかった。

「とくに女子教育には否定的な地域もあったので、8年ある義務教育で、女子は低学年までしか受けられなかったんです」

こうした思いから、村には女子の学校が誕生した。

また、「ロシナンテス」はワッドアブサーレ区に3カ所の診療所を立ち上げ、医師が常駐できない村には、定期的に医師を派遣する巡回医療の体制を作り、きれいな水がない村には井戸を掘るなど、活動の場を広げた。またスーダン人医師に肝移植を学んでもらおうと、母校・九州大学に招 聘するなど、人材育成にも注力した。

だが、こうした活動の前に立ちはだかったのが、突如、勃発した内戦だ。

■内戦が落ち着けば、戻るつもりだ。スーダンと日本の架け橋となる

激しい爆発音。突然起こった戦闘によって、平穏だった生活が奪われたのだ。

30時間かけて首都から地方の空港にたどりつき、九死に一生を得て、日本に帰ってきたが、現地の情勢はいまだ不安定だ。

「いらっしゃいませ! 先生、ご無事でよかったですね」

5月下旬、川原夫妻が向かったのはなじみの和食店。緊急脱出後、初めての来店だったため、店主たちが無事を喜んでくれた。

命からがら脱出したのだから少し休んでもよさそうなものだが、川原は帰国後も「ほぼ無休」だ。

1週間のうちに、東京で講演したかと思えば、長崎の会合に出席し、東京に舞い戻り、沖縄を経由して福岡に戻るといったハードスケジュール。仕事先ではマネージャーとして、可能な限り佳代さんが同行している。

「私はスーダンの政情が安定するまで好きな酒を断っているので、会合などでは代わりに女房に酒を飲んでもらっているんです」

冗談を言うが、離れた時間が長かった分、一緒の時間を大事にしたいとも考えているはずだ。

とくに、佳代さんも心配しているのは健康面。4年ほど前、激務が続き睡眠時間を削った毎日を送ったため、異型狭心症という病気で、突然、ばたんと倒れてしまったことがあるためだ。

「夢中になると、休みを取らずに無理をしてしまうので、死にかけてしまいました。意識的に休むようにするため、一息ついたら、女房と別府温泉にでも行くつもりです」

そう語る間も、現地と電話連絡をとっている。どこにいても、心はスーダンにある。

「内戦が落ち着けば、スーダンに戻るつもりです。もっと医療を充実させたいし、今後は農業支援にも力を入れたい。日本との貿易がうまくいけば、地域の経済が回り、自立できます。その仕掛けのため、明日からは東京に行って、駐日スーダン大使に相談するんですよ」

マラリアから命を救った女性は、村で一緒に汗をかいたハサンさんは、無事でいるだろうか。

地域を豊かにするために、彼ら民衆に誓う。あなたたちの笑顔にまた会う、と――。

スーダンと日本の架け橋となり、「ロシナンテス」は疾走し続ける。

【後編】スーダン内戦から決死の脱出 認定NPO法人「ロシナンテス」理事長・川原尚行(57)へ続く

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