元横綱・白鵬が参拝したけど「本当かすら根拠ない」 関西各地に点在する「相撲の神様」の墓、本物はどこ?

野見宿禰神社がある山の中腹に立つ岸本道昭さん=たつの市龍野町

 相撲の神様はどこに眠るのか-。奈良時代の日本書紀や播磨国風土記(はりまのくにふどき)に登場する伝説上の人物「野見宿禰(のみのすくね)」は晩年、現在の兵庫県たつの市で病死したとされる。同市や隣接する同県相生市には宿禰を葬ったと伝わる古墳が点在するが、いずれも学術的な根拠があるわけではない。謎を秘めた「宿禰の墓」。手がかりを探るべく、両市の学芸員らに案内してもらった。(地道優樹)

 木々が生い茂る人けのない道を進むと、こんもりとした丘が現れた。たつの市との市境近くにある相生市那波野の宿禰塚古墳。宿禰の墓との説がある長さ約42メートルの円墳だ。

 「地元の人が宿禰塚と呼んでいたのが名前の由来です」。相生市文化財専門員の中浜久喜(ひさよし)さん(66)が案内しながら教えてくれた。1970年代には墳丘から大量の埴輪(はにわ)片が出土。脚の付いた大型のつぼなども見つかっているが、内部の本格的な発掘調査は行われていないという。

 考古学的な価値が再評価され、今年1月に同市の文化財に指定された。この辺りには埴輪の創始者とされる宿禰を祖先とする工人・土師氏(はじし)の拠点があり、後世の人が宿禰の墓と考えた可能性が高いという。

 日本書紀に登場する宿禰は出雲国(島根県)出身。天皇の命令で大和国(奈良県)にいた力自慢の「当麻蹶速(たいまのけはや)」と相撲を取り勝利した。敗れた蹶速は命を落とし、やがて宿禰は相撲の神様と祭られるようになる。

 播磨国風土記の記述では、宿禰は晩年、大和と出雲を行き来する途中に現在のたつの市付近で病に倒れた。悲しんだ出雲の人たちは揖保川の石を使って宿禰の墓を造った。野に立ち並ぶ人々の様子から「立野」の地名が付き、いつしか「龍野」になったとされる。

 そんな伝承が残るたつの市には、山の中腹に野見宿禰神社が立つ。石の扉の後ろに宿禰を埋葬した円墳とされる場所がある。

 「幕末に播磨国風土記の内容が地元に広まり、墓探しが始まった。そこでこの場所に注目が集まり、明治中期に神社として整備された」。同市立埋蔵文化財センターの岸本道昭館長(64)はそう解説する。

 神社には明治期の横綱らが奉納した玉垣が残る。今年3月には元横綱・白鵬の宮城野親方(38)も弟子と参拝に訪れた。

 ただこれまでに本格的な調査は実施されておらず、岸本さんは「本当に古墳かどうかすら学術的根拠はない」と指摘する。

 一方、最有力とされていたのが、現在の龍野高校の場所にあった西宮山古墳だ。実は明治後期、宮内省の役人による調査で、宿禰の墓と認定されていた。

 同古墳は6世紀半ばに築かれた長さ約35メートルの前方後円墳で、同時期の揖保川流域では最大級。だが同校のグラウンド工事に伴って1957年に消滅した。

 この時の発掘調査では、相撲を取る力士のような装飾を施したつぼが出土。宿禰を連想させる遺物と注目され、国所有となった。

 岸本さんは「そもそも本物の墓が実在するか不明だが、少なくとも播磨国風土記の伝承のもとになった古墳は西宮山古墳ではないか」と分析している。 ### ■県外の各地にも存在 古墳造った土師氏一族の影響?

 「宿禰の墓」は兵庫県外の各地にも存在する。その背景を探ると、古墳造りを担ったある一族の存在が浮かび上がった。

 野見宿禰の出身地とされる山陰地方には、鳥取市の大野見宿禰命(おおのみのすくねのみこと)神社と島根県松江市の菅原天満宮に宿禰の墓がある。両神社の宮司は「龍野で亡くなった宿禰の骨が分骨され、墓が建てられた」と説明する。

 関西地方では、奈良県桜井市の出雲地区に宿禰の墓とされる古墳が明治期まであった。近くの相撲神社には、宿禰が初めて取組をしたとされる相撲発祥の地があり、境内には宿禰を祭るほこらも残る。同市の担当者は「地域では宿禰は桜井の出雲出身と伝えられている」と話す。

 大阪府高槻市にも宿禰の墓がある。同市の上宮(じょうぐう)天満宮の境内にある野見神社は古墳の上に立つが、その古墳が宿禰の墓とされる。周辺には宿禰を祖先とする古墳造成を担った工人・土師氏(はじし)が住んでいたという。

 各地に宿禰の墓が存在する理由について、たつの市立埋蔵文化財センターの岸本道昭館長は「土師氏一族が全国に散らばる中で、祖先の宿禰を祭神とする神社が広がり、一部に墓も建てられたのではないか」と推測する。

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