世論の批判に「私がやったことは、何ら間違っていない」 参院のドンの矜持 【コラム・明窓】

2005年8月、衆院選に出馬した竹下亘候補の応援に駆けつけ、支持者らに手を振る青木幹雄氏=出雲市内

 竹下登元首相が都内の病院に入院したのが1999年4月。側近の青木幹雄・参院自民党幹事長が「変形性脊椎症で3週間程度入院する」と説明しただけで、入院先も明かさぬ〝秘密主義〟を徹底したため、「重病説」が永田町を駆け巡った。

 青木氏は「もう総理を辞めた人間だし政局に影響はない」とけむに巻いたが、周囲はそうは捉えない。小渕恵三首相からの禅譲を狙っていた自民党の加藤紘一前幹事長は「政局の絵(シナリオ)を描く人が不在という点で影響は大きい」と危惧したという。

 政界ではまだ目立たぬ存在だった青木氏が頭角を現したのがこの頃。翌年6月、竹下氏が76歳で死去すると、その影響力を引き継いだ。小渕氏が脳梗塞で倒れた際は、内閣官房長官として首相臨時代理に就任し、後継首相に森喜朗氏を選んだ。

 ところが、その過程が不明瞭だと世論の批判を浴びた。それでも青木氏は、長官退任時のインタビューで「外野で騒がれたが、私がやったことは何ら間違っていないと思っている。政権を途切れさせてはいけない」ときっぱり。政治家としての矜恃(きょうじ)だったのだろう。

 その後も参院自民党を掌握し「参院のドン」と呼ばれた青木氏が89歳で亡くなった。幅広い人脈で2010年の政界引退後も政局に影響を与えてきた。次はどんな政局の絵を描こうと考えていたのか。師と同じ梅雨時に筆をおいたのも、何かの縁だろう。

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