半世紀続くリスナーとの奇跡的な関係 大橋照子さん「ヤロメロ&ラジアメ」同窓会イベントに70人

ラジオたんぱ(日本短波放送、現在のラジオNIKKEI)で1977~85年に放送されていた平日夕方の公開放送番組「ヤロウどもメロウどもOh!」(通称ヤロメロ)と、TBSラジオで日曜深夜に放送されていた30分番組「ラジオはアメリカン」(同ラジアメ)を聴いていたファンを集めたリスナー同窓会「ヤロメロ46周年&ラジアメ42周年同窓会」がこのほど、都内で行われた。

イベントにはヤロメロ、ラジアメに出演していた元日本短波放送の局アナで、フリーアナウンサーの大橋照子さんと、ラジアメの構成を担当していた放送作家の鶴間政行さんが出演。当時、中高生だったリスナー70人が参加した。

イベントでは、両番組の人気コーナーを再現。大橋さんはかくし芸のために1年間、空手を習い手刀で板を割った。今では50~60代になった当時のリスナーは、童心に返ったように目を輝かせていた。

日本全国を聴取エリアをしながらも受信機の数がAMやFMラジオより少なかった日本短波放送だが、1970年代初頭に海外の短波放送を受信するBCLブームが起こり若者の聴取者が急増。株式市況や競馬中継終了後の夕方に中高生向け番組を編成した。〝チェリーちゃん〟の愛称で人気局アナだった大橋さんは、1日100万人が聴いていたというヤロメロの立役者に。若き日のビートたけしも別曜日にレギュラー出演していた。

結婚を機に、フリーアナウンサーになった後の81年(昭和56)には、当時のゲームメーカー・ナムコ提供のラジアメがスタートした。ヤロメロは「午後4時のふれあいスタジオ」「日本全国ヤロメロどん!」と番組名を変えながら、声優ブームや大橋さん、斉藤洋美さん、小森まなみさんの〝たんぱ三人娘〟の人気で全盛期に。ラジアメは全国でイベントが開催されるなどの人気を誇ったが、1985年(昭和60)に大橋さんは夫の米国転勤のためすべての番組を降板。ヤロメロは同年に終了し、ラジアメは斉藤さんに担当が代わった。

ヤロメロの前身番組だった1976年(昭和51)開始の「ギャング・パーク」以来、大橋さんのファンだという名古屋市の61歳男性は「BCLブームの時に、偶然知った照子さんの番組を14歳の時から聴いている。高校生の夏休みには毎年、虎ノ門にあった日本短波放送のスタジオに行っていた」と、誰でも入ることができた同局の公開放送スタジオを訪れていたという。

この男性は「包容力。とにかく受け入れてもらえる。ハガキがたった1枚しか読まれていなかったのに、サインをもらった時に名前を言うと『名古屋の○○くん!?』と言ってくれた。ハガキを全部読んでくれている気がした。黒柳徹子さんと(明石家)さんまさんを合わせたような感じ」と魅力を語る。大橋さんの担当曜日には月1万5000通ものハガキが届き、すべてに目を通していたという。

番組スタートから半世紀。SNSの進化で、時に人が距離感を見誤る時代に〝大橋照子と仲間たち〟は奇跡的な関係を保つ。鶴間さんは「照子さんとリスナーの間に、ほどよい距離感というか察する文化、信頼感がある。照子さんは品があって知的で、絆を大切にする人。みんなを喜ばせたい、何をすれば楽しいんだろうということにひたむき。人柄…番組にも〝番組柄〟というものがある」と評した。

大橋さんは85年の渡米時に、何千人もの〝リスナー名簿〟を作成していたという。聴取者同士の横のつながりも強く、90年(平成2)に帰国時には「もう誰もいないと思っていたけど、ふつうに成田空港にお迎えしてくれた」と振り返る。ちなみに大橋さんはラジオの聴取者、今ではYouTubeの視聴者のことも指す「リスナー」という言葉を根付かせた人物とされる。

ネット配信番組「ドキドキラジオ」を担当し新しいファンも開拓しながら、1年ごとに同窓会イベントを実施。「同じ時間を共有できたらいいですね」と、当時のリスナーとの共同住宅も夢見る。ヤロメロは約9年間、ラジアメは約4年間の全力疾走だったが「あの時が楽しかったから。リスナーとの交流は人生の喜びというか、一生楽しめます」と語る大橋さん。ファンとの熱い親交は、まだまだ続く。

(よろず~ニュース・杉田 康人)

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