平成15年の年賀状「宮島、パリ、青山と私」・「広島へのセンチメンタル・ジャーニーと青年弁護士のボルネオ島への旅のことなど」

牛島信弁護士・小説家・元検事)

年頭にあたり皆々様の御健勝をお祈り申し上げます。

昨年のご報告を一、二、申し上げます。

春、ひょんなことから新聞に小説を書かせて戴くことになりました。月一回、読み切りで未だ続いています。産経です。

夏、広島に帰りました。子供と日没を眺め、センチメンタル・ジャーニーを試みました。

秋、パリを歩きました。ピカソ美術館近くのカフェーで中年のマダムに頼んで、一人クロック・ムッシューを食べました。

冬、伊藤整の「変容」を読み返しました。彼がそれを書いた昭和43年は私が高校を卒業した年で、地下鉄の東西線は未だ大手町までしか来ていなかったようです。そんな東京が確かにありました。

週日港区に住むようになって三年ほどになります。街歩きが好きな私には僥幸です。目の前に昔の薩摩屋敷があります。麻布の善福寺があります。広尾でサンドウィッチを買います。狸穴のアメリカンクラブへも歩いて行けます。

今年は大きな目標を抱えています。「一年待つ」といわれています。

何卒本年も宜しくお導き下さいますようお願い申し上げます。

『宮島、パリ、青山と私』

【まとめ】

・2002年夏の広島への「センチメンタル・ジャーニー」はよく覚えている。

・検事から弁護士になり、事務所を変わり、その後独立するなど、放浪を繰り返した。

・どんな巨大組織も個人に支えられており、関わってきた人全てに今でも深く感謝している。

あの夏、平成14年、2002年の夏の広島への「センチメンタル・ジャーニー」の夏。あの夏のことはよく覚えている。

広島市郊外の牛田というところに両親の家があったが、4人が泊まるほどの大きさではないので、別に広島の中心部にあるリーガロイヤルホテルに部屋をとった。家族4人で3部屋だったか。52歳だった私は、もうそのくらいの贅沢ができるようになっていたのだろう。一つは大きなスイートだった。日没を眺めたのも、その部屋からだった。やがて広島カープのナイターがすぐ下に見え、まばゆいばかりの照明灯に浮かび上がった芝生の新鮮な緑が目になんとも清々しく、とても心地のよい光景だった。よく覚えている。あのときの旅のことはなにもかも覚えている気がする。

その部屋で、義兄と子ども二人の4人で話をしていたときのことである。

「わしゃー飛行機も操縦したことがあるんで」

広島弁まる出しの義兄は少し酔っていたのか、おおいに上機嫌だった。

「オートバイもやるで。

ハンググライダーもでけるよのお。」

その夏には、義兄のクルーザーに乗せてもらっての花火見物も予定されていた。

「わしが自分で操縦するんで。もう船の免許をとってからだいぶになっとる」

「伯父さん、なんでも乗ってるんだね。」

義理の伯父の自慢話を黙って聞いていた24歳の長男が義理の伯父に話しかけると、義兄は上機嫌で答えた。

「おお、わしゃあ乗りもんが好きじゃけえのお、なんでも乗っとるわい。」

あくまで上機嫌だ。

そこで、長男はふっと、なにげない調子でたずねた。

「伯父さん、車イスに乗ったこと、ある?」

そう問いかけた長男は、自慢話ばかりをする義理の伯父を揶揄する思いがどこかにあったのかもしれない。24歳の青年なのだ。そうだとしても不思議ではない。飛行機の操縦ができることを天真爛漫に、いかにも誇らしげに語る義理の伯父の言の葉を聞きながら、反対に、車イスを使わなければ身をほんの少しも移動することもままならない人々のおかれた状況を思い浮かべずにおれなかったのだろう。いや、ひょっとしたら私自身がふだんの義兄との付き合いから、その時にそのように感じたから、その思いを長男に重ねただけであって、長男にはそうした気持ちはなかったのかもしれない。

いずれにしても私は、如何にたくさんの金を費やして人生を謳歌しているかを義理の甥たち相手に誇ってみせる義兄、長男にとっての義理の伯父に対して、「伯父さん、車イス乗ったことがある?」という質問をした長男のウィットに感心してしまった。

果たして、「車イス?車イスか。車イスは・・・えーと、ないな」

義兄は憮然としてそう答えた。

翌日だったか。彼のクルーザーで宮島の鳥居のすぐ下へ行った。もちろん海上である。そこに錨をおろして船を泊め、両親、義兄、姉、そして私の家族4人の合計8人で宮島の花火を鑑賞したのだった。いや甥二人もいて10人だったかもしれない。広島で自営業を営んでいる義兄はそのころ景気が良かったのだろう。ある意味で大いに男気のある、気のいい人物でもあった。

海の上だからこそ可能になる、正に花火の真下からの見物だった。得難い経験をさせてもらった。ふつう花火は離れて遠くから眺める。それが真下から眺めると、花火の光というものが実は丸い玉なのだとよくわかる。火薬が爆発して花火になるのだから、爆発点から等距離に拡がるというのは当たり前といえば当たり前であろう。ふだん夜空高く上がる花火を遠くから眺めても二次元にしか見えない。紙に描いた花火と同じである。球形の花火を見ると、なるほどどの方向から見ても花火が丸く見える理由がわかったような気がした。

さて花火も十分堪能したし、出発しようということになったところで、船のロープがスクリューに絡まってしまっていて動かない。身体を動かすことを少しもいとわない義兄は、もう60歳近かったのだが下着の白いブリーフ一枚の姿になって海に飛び込み、何度も潜っては片手に持ったナイフでロープを切り割こうと悪戦苦闘し始めた。ところが、ロープは思いのほか固く、しかも強く絡みついているようで、スクリューの位置が船の下にあるために、ナイフ片手に海に潜ってスクリューに寄って作業をしている義兄の身体は、波が上下するたびに水の動きそのままに身体全体が垂直、つまり頭を上に足を下にした格好で浮いたり沈んだりする。だから、波の上下があるたびに船の底の一部に義兄の頭が激突してしまう。からだ全体が水のなかに浸かった形だから、衝撃は相当のものがあったに違いない。ふつう人間はそういう姿勢で海に身体を沈めた姿勢をとらない。いわんや、そのまま縦に浮き沈みして頭を海面近くの硬い物質にぶつけることはない。波止場にいればロマンチックなさざ波程度の揺れでしかない海面の上下が、縦に、魚釣りのウキのように浮かんだ人間にとってどれほどの強い衝撃となりうることか。いまでも、彼の頭が船底の周辺部にぶつかったゴツンゴツンという鈍い音が聞こえるようである。痛かったことであろう。それはそうである。ましてや義兄の頭髪はもう年齢相応に薄くなってもいたのだ。潜っては、ロープにナイフを突き立て、息継ぎに船の外周部近くに浮き上がる。そこで船底に頭を打ちつける。なんどもなんどもそれを繰り返し、やっとロープを切り取った義兄の苦労はいかばかりだったか。

彼はもう今は亡い。

なにはともあれ、義兄が我が身をかえりみることなく獅子奮迅の活躍をしてくれたお蔭で船はまもなく動き始めた。文字どおりパンツ一丁で大活躍をした義兄は、ロープを切るのに使ったナイフを片手に握って甲板にあがり、身体の海水を拭き、服を身に着け、再び自慢の操縦にとりかかった。後は順調な航海だった。

パリの「ピカソ美術館」については、以前に書いたことがある。

改めて、独りクロックムッシュ―を食べていた自分を思いだして、そういえば隣に男性の二人連れがいて、白ワインを美味しそうに味わっていた光景が脳裏に浮かんできた。あれは、LGBTQの二人連れだったのかもしれない、と今にして思い返してみる。カフェーの風景の一部であるかのように、とても仲良しの二人づれだった。せかせかと食べ終わった日本人の中年男とは対照的に、二人でいることのできる人生を心から愉しんでいるように見えた。

「中年のマダム」と書いている。そうなのだ、パリの女性となるとどういうわけか中年がしっくりくる。女性について中年であること、そう見えることを評価するのはフランスだけの文化ではないかと思ってみたりもする。太っても痩せてもいなかった。彼女とは英語で話したのだろう。あるいは片言のフランス語だったか。

大学生だった時のこと、友人に誘われてヨーロッパ3週間というパッケージツアーに参加したことがあった。東大の生協で申し込んだのだった。未だ外国旅行が一般的ではなかったころだ。夏の旅行から帰ったらその友人は司法試験に合格していて私は落ちていたから、23歳のときのことだったろう。

シャルトルにある教会を観に行こうと駅で切符を買おうとして、「シャルトル」と精一杯フランス語らしく喉彦を震わせる発音して駅員に説明する。わかってくれない。何回も同じやりとりが続いた。しまいに駅員が「シャトーに行きたいってことは分ったよ。だから、どこのシャトーに行きたいんだと訊いているんだ」と言われたときにはショックだった。しかたがない。思いっきり日本語の発音で「しゃるとる」と発音すると、「オー、シャルトル」と答えてくれた。情けない思い出だ。

「地下鉄の東西線」といえば、司法修習生だったときに浦安駅近くに住んだ。住所は市川市だった。広々とした角部屋のうえ最上階の3LDKで、国際関係の弁護士になることを決めていた私は、就職予定の法律事務所のある大手町への便の良い浦安のマンションから通うことにしようと、修習生の間に借りたのだ。セイタカアワダチソウがたくさん生えた荒地の中にあった。

ところが私は検事になることに決めた。日当たりの良い、自分の書斎兼寝室で考えこんだのを覚えている。どうして国際的な仕事をする弁護士になるつもりで張り切っていたのに検事になったのか。

「検事には将校と兵隊があるんだよ。君はもちろん将校だよ」という、検察教官の言葉が決め手だったろうか。私自身が国家権力というものへの好奇心を持っていたからだったろうか。

採用を決めてくれていた法律事務所に進路変更を告げてお詫びに行った。なんども行った。その度に私に目をかけてくれていた十数歳年上のパートナーの弁護士だった方が、向かいの丸の内ホテルの地下にあるバーに連れて行ってくれ、ホワイトホースという名のスコッチウィスキーを飲みながら「君はやっぱり弁護士になれよ」と説得を繰り返した。未だホワイトホースが高級スコッチウィスキーだった時代である。瓶の頭に無数のホワイトホースの小さなフィギュアがかかっていて、彼がそのバーに通っている長さと頻度を示していた。歌舞伎座近くの中華料理屋で豚の耳を食べさせてくれたこともあった。

検事になった私は1年後に同じことを繰り返すことになる。検事を辞めて弁護士になりたいと申し出たのだ。その年の新任検事から大量の退職希望者が出たことに危機感を抱いたのか、上司から「どこへでも好きなところへ転勤させるから、とにかく今年はダメだ」と言われた。それで私は両親の住んでいる広島への転勤を希望し、その地で退官した。そのときには誰も引き留めなかったどころか、「良く決心したな。検事は転勤、転勤の人生だからな」と励ましてくれた中年の検事さんもいた。

さらに、弁護士になって6年後、また同じことをした。こんどは、或る弁護士に一緒に事務所をやろうと強く誘われたのだ。依頼者を獲得するのが魔法使いのように上手いという評判の、金満家の弁護士だった。それで私は、雇われ弁護士から独立した弁護士になった。丸の内にあるAIUビルから南青山のツインタワーに引っ越した。若い女性秘書のなかには、青山で働けるなんて羨ましいと言ってくれた方もあった。

私の放浪癖は未だ終わらない。

2年7か月後、私はその弁護士と別れて別個の事務所を営むことに決めたのだ。若い弁護士たちがその金持ちの弁護士が弁護士としてあるまじき行為をしている気がすると言い出し、別の事務所を作ってほしい、そこでやりたいと私に強く迫ったことが大きな理由だった。あのときは苦労した。1987年。バブルの頂点近くで、ビルの空室が払底していたのだ。何人もの弁護士とスタッフが私とともに移るに足るスペースを確保しなくてはならなかった。出入りしていた都市銀行の若い青年が、青山の同じこのビルのなかに空いているスペースがあると教えてくれ、その情報をもとに強いコネのあったビル会社の首脳に強引に頼み込んだ。コネがあったのは私の父親である。

一番の難題は、ビル会社の別の首脳が、別々の事務所になった後にも同じビルのなかにいるということになるから、元の共同して事務所をやっていた弁護士の承諾を取ってほしいという条件を付けたことだった。そんな時代だった。その巨大なビル会社は、それほどに長い間のテナントを大切にする文化を大切に維持にしていたのだ。

もちろん、相手の弁護士は承諾しない。間に挟まったのは、ビル会社の管理事務所の方だった。なんどもその相手の弁護士の事務所に日参しては、ひたすら拝み倒すように頼むことを繰り返してくれた。それで私はめでたく22階から14階に移転することができたのだった。75坪の出発だった。

今は10倍をはるかに超えるスペースを使っている。現在の山王パークタワーも同じ大家さんである。青山のビルで拡張を重ねかさねさらに拡張を望む私に、「いっそ山王パ―クタワーに移転したら如何ですか?」と親切にも勧めてくれたのだ。私はそのビル会社に大変に恩義を感じ続けている。

巨大な不動産会社で、株式会社という上場した法人なのに恩義はおかしい?

違う。どんな巨大組織でも、個人が支えているのだ。私はそう思っている。私にそう教えてくれたのもその巨大不動産会社の担当の一人一人の個人なのだ。あの人、あの方にのそれぞれに私は今でも深く感謝している。

写真:マレーシア サワラク州クチンの眺め 2017年11月6日

出典:Photo by Chris Jackson/Getty Images

『広島へのセンチメンタル・ジャーニーと青年弁護士のボルネオ島への旅のことなど』

【まとめ】

・石原慎太郎さんは、私に芥川賞をやりたい、だから、150枚の小説を書くのを「一年待つ」、と言ってくれた。

・私は伊藤整の小説、『変容』は昔から好きだった。60歳の画家の恋愛を通じての一種の老人論である。

・弁護士として国内外で活躍していたら、いつの間にか35歳になっていた。

「一年待つ」と言ったのは石原慎太郎さんだ。私に芥川賞をやりたい、だから、150枚の小説を書くのを「一年待つ」、と言ってくれたのだ。私は舞い上がる思いだった。その間のことについては、石原さんについての私的思いでとして、『我が師 石原慎太郎』という本に書いた。幻冬舎から出版されたばかりの本だ。

「本が出版されるまでは、作家が主題から最終的に開放されることはない」とサマセット・モームは言っている(『要約すると』225頁 岩波文庫)。

さらに「作品が世に問われて初めて、たとえ読者に歓迎されなかったとしても、著者は自分を苦しめていた重荷から解放されるもの」だとも彼は書いている。どうして「たとえ読者に歓迎されなかったとしても」と挿入したのか不思議だが、たぶん、彼の名作『人間の絆』が世に問われたのが「第一次世界大戦の最中(さなか)であって、誰もが自分の苦しみに終われていたから、小説の主人公の体験などに注意を払う余裕がなかった」(同書226頁)と弁解するためなのだろう。

出版が必要な手順であるのは、過去を自分流に回想して捉えなおした文章が、いま目のまえに本という客観的な物質として存在としているという動かしようのない事実が、著者自身に、自分の頭のなかから勝手にひねり出したに過ぎない文章が、もはや動かすことのできない実在として世の中に存在していると納得させ諦めさせるための仕掛けだということなのだろう。

出版されなければならないのは、手元の原稿である間はいかようにでも書き換えることができるから、それは未だ決して客観的な存在にはなっていない、ということを経験的によくわかっているからに違いない。本として世間に出れば、店頭に並べば、もう自分の手を離れてしまっている。自分の頭のなかにあっただけの回想が、歴史的事実として存在するにいたってしまって、もう自分でも自由にはできない物と化していると感じられるということなのだ。

伊藤整の『変容』を読み返したのは、石原さんとその小説の話をしたからだった。

私は伊藤整の小説、殊に『変容』は昔から好きだった。伊藤整との縁は『氾濫』という、彼の晩年の三部作の最初の長編が映画になったものをテレビで観て以来で、それが大学生の時のことだった。映画そのものは1959年のものである。

三部作の最後が『変容』なのだが、それを私は愛読していた。60歳の画家の恋愛を通じての一種の老人論である。

しかし、実は最近になってから、私は真ん中の『発掘』がもっとも気になっている。伊藤整が加筆修正を望みながらも叶わなかった長編である。癌のためにやりとげることができなかったのである。死後に単行本として出版されている。しかし、作者にとっては未完なのである。

この『発掘』に書かれている伊藤整の自画像が気になってならない。一応の世間的成功を遂げた主人公、自らの分身について、「自分が『贋もの』だという意識に取りつかれている」と描いている。伊藤整は世間的に大成功した自分への評価として、「贋もの」という言葉を選んだのである。私は、私なりに彼のその気持ちがとてもよくわかる気がしているのだ。いや、まちがいなく、世間の多くの人々にとっての苦い真実ではないかとすら感じている。

たとえば、鷗外も『妄想』のなかで、「生まれてから今日まで、自分はなにをしているか。始終何物かに策(むち)打たれ駆られているように学問ということに齷齪(あくせく)している。これは自分に或る働きが出来るように、自分を為上げるのだと思っている。その目的は幾分か達せられるかも知れない。併し、自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後(うしろ)に、別に何者かが存在していなくてはならないように感ぜられる。策打たれ駆られているばかりいる為に、その何物かが醒覚する暇がないように感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生と、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、みなその役である。赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。併しその或る物は目を醒まそう醒まそうと思いながら、又してはうとうととして眠ってしまう。」と書いている。

どうやら誰もが、人によって程度の差はあっても、「真の生」は、現実に目の前にあり自分を取り囲んでいる、自分なりにつかみ取り発展させた人生でなく、信じられないほど素晴らしいなにかがどこかにあるはずだと感じながら生きているもののようだ。したがって、他人には洩らさないにして、大なり小なり自分は贋ものだと感じながら生きているのだろう。

いずれにしても、誰もが確実に死ぬ。太陽のように生きた石原さんも亡くなった。トルストイの書いた小説「イワンイリーイチの生涯」の主人公である裁判官のイワン・イリーイチも、生き、悩み、死んだ。誰もが死ぬに決まっている人生を生き、あげくに死ぬのだ。赤く黒く塗られている顔のまま死ぬことになる。

それにしても、「彼がそれ(『変容』)を書いた昭和43年」は1968年であって、55年も以前のことである。「そんな東京」とは、たとえば本郷三丁目から都電に乗って丸善のある八重洲まで乗り換えなして行くことのできた東京である。それは芥川龍之介が『或阿呆の一生』のなかで書いているとおり、西洋式梯子に登ったまま、店員や客を見下ろして「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と呟いた丸善のあった東京から数えて、たった41年後の東京に過ぎない。芥川がそう傲然と言い放ってから、もっともっとたくさんの時間が経ってしまっているのである。

「ひょんなことから新聞に小説を書かせて戴くことになりました。」というのは、産経新聞の宝田茂樹記者のおかげだということも『我が師 石原慎太郎』に書いた。それが石原さんの目に留まった結果の芥川賞の話だったことについてもそこに書いた。

「秋、パリを歩きました。」とある。外国の都市で一番訪ねた回数が多いのは、ニューヨークだろうかロサンゼルスだろうか。それともロンドン、シンガポール、あるいはパリということになるのか。ほとんどが仕事での訪問である。私の師匠であるラビノウィッツ弁護士は「自分は世界中とこへでも行く、それが仕事である限りは」と言っていた。見習ったというわけではないのだが、仕事以外で海外に行くにはあまりに仕事で行くことが多過ぎたのだろう。

シンガポールには、検事を辞めてアンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所の弁護士になって数か月後の夏に行ったのが初めてだった。1979年のことである。それから何回行ったことか。一度を除いて、すべて三井物産を訴えた中国系マレーシア人である実業家の事件のためだった。東京地方裁判所に係属した事件で、彼の代理人になったのだ。訴状を提出したのでシンガポールのメディアを呼んで広報したいと依頼者が言うので、そのシンガポールにあるビジネス拠点に出かけたのだった。私はまだ29歳だった。学生時間に使って以来もう期限切れになっていたパスポートを取るために事務所のパラリーガルだったF嬢が大活躍してくれたことも覚えている。

もちろんメインの弁護士はパートナーだったN弁護士である。しかし、彼もまだ40歳前後でしかなかった。それにアメリカ人の若い弁護士がいっしょだった。

この仕事を始めたときにこんなことがあった。

依頼者はマレーシアのサラワク州の木材伐採権を有する会社の全株を持ったオーナーで、その有していた株の半分を三井物産に売るという契約をめぐる紛争だった。私の前に担当していた若いM弁護士がアメリカに留学するので、訴状を出す前に私が引き継いだのだ。

「これ読んでくれたら、だいたいなんのことが分かるから」

と彼は、いとも気軽に厚さ3センチほどの書類を手渡してくれた。すべて英語の文書だった。

「ほかにも関係した書類がファイル何冊か分あるけど、いっしょに担当しているGに聞けばよく知っているから大丈夫だよ」

とのことだった。Gというのはアメリカの弁護士で日本では弁護士としての資格はなく、ラビノウィッツの下で英語の法律事務の処理を手伝っている女性の名だった。Gはファーストネームで姓はSといった。とてもふっくらした、私と同年配の女性で、夫は日本の囲碁のプロということだった。その後もたくさんの仕事を彼女とはやる機会があったが、とても頭の良い、素晴らしい方だった。彼女とは英語での法律事務の議論をずいぶん愉しんだものだった。

その「一杯ある関係した書類がファイル何冊」という書類の頁を、私の目のまえで指を舐めながら繰り、「I see.」と呟きつつ、隣に座った私に英語で中身を説明してくれた。そういえばリングファイルという便利なものの存在を知ったのもその時のことだった。いまではもう流行らないだろうが、書類の束を綴じる二つの金属の丸い輪があり、その輪を上下方向にある同じ金属のS字型のレバーを動かすことで開閉することができるという優れモノだった。

M弁護士から薄からざる英文書類を渡された私はそれを読み解き、訴状をドラフトした。正確にいうと、私とG弁護士が英語で議論しG弁護士が英語で訴状案を作る。その案を私が翻訳を兼ねて検討し日本語の最終案にして、担当パートナーであるN弁護士に見てもらうのだ。

請求金額は20億円だった。

私は自分で裁判所へ出かけて訴状を受け付けてもらった。たくさんの印紙を貼らなくてはならなかった。印紙だけで1000万円くらいだった記憶だ。10万円が印紙一枚の最大金額だった。大量の印紙を貼った訴状を書記官がコロコロと回転する金属のハンコで印紙にインクを付けて消印しながら、「おやおや、こんなに大量の印紙を貼った訴状は初めてだな」と軽妙に言って受け付けてくれたのを覚えている。

こんなこともあった。

三井物産の常務だった方の証人喚問を申請したときのことである。三井物産はまさに全力を挙げてという表現のふさわしい、断固たる決意をもって強硬に反対し、論陣を張った。結局、裁判所は認めなかった。これも時代である。いまはすっかり変わっている。もし尋問が実現していたら?結果は違ったろうと私と上司のパートナーは話しあったものである。

ずいぶん頑張った。台湾にも行った。三井物産の旧首脳の関係者がいたのだ。

この事件は、契約締結上の過失の事件として昭和60年の重要判例集にという有斐閣のジュリストの別冊に出ている。大学の先生からのお問い合わせもなんどもいただいた。裁判には勝ったのである。しかし、契約違反ではなく不法行為として判断されてしまったのである。

裁判後、依頼者の好意でマレーシアのサラワク州にあるクーチンという名の街に招待された。クーチンとは猫という意味だそうである。彼が総督から譲り受けたという大きな船に乗って、彼の持っている島に出かけたりもした。

その島で聞いたのが、御巣鷹山での日本航空の事故だった。私はそのときカリマンタン島、旧称ボルネオ島のサラワク州にいたのである。35歳になっていた。

トップ写真:厳島神社の鳥居(廿日市市、2014年11月24日)

出典:Photo by Yuriko Nakao/Getty Images

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