元広島カープ北別府学さん死去「2ケタ勝利だけではダメ」生前明かしていた引き際の美学

(写真:時事通信)

1980年代に広島東洋カープのエース投手として活躍した北別府学さんが6月16日、広島市内の病院で亡くなったことが分かった。65歳だった。

57年7月12日生まれの北別府さん。宮崎県立都城農業高時代は甲子園出場がかなわなかったが、75年にドラフト1位で広島東洋カープへ入団。プロ2年目の77年から1軍で活躍し始めると、先発ローテーションの頭として投げ続けた。82年には20勝、86年には18勝で最多勝タイトルを獲得。94年に引退するまでに沢村賞を2度、セ・リーグMVPを1度、最優秀防御率を1度など数々の栄冠に輝いた。そして2012年には野球殿堂入りを果たした。

そんな北別府さんはコロナ禍が始まった20年1月、レギュラー出演していた広島ホームテレビの情報番組内で「成人T細胞白血病」であると公表していた。以降は入退院を繰り返し、18年から就任した私立英数学館高校硬式野球部非常勤コーチへの復帰を目指していた。

プロ通算219勝、広島東洋カープ初の1億円プレーヤーとして活躍した北別府さん。1994年に惜しまれつつ引退したが、生前に超一流選手としての“引き際の美学”を語っていたという。

「78年から88年まで11年連続で2ケタ勝利。引退する2年前の92年にも14勝を挙げるなど立派な成績を残していたが、本人は『2ケタ勝っただけではダメだ。やっぱり先発は試合の最後まで投げ切る責任がある。できなくなったのも辞めるきっかけになった』とおっしゃっていました」(テレビ局関係者)

ユニホームを脱いでからは、テレビ朝日や広島ホームテレビのプロ野球解説者に。2001年から04年までは、カープの1軍投手コーチを担当した。05年からは再び解説者として活動したが、当時では画期的なプロモーションにも取り組んでいた。

「『若い人にも発信しなければいけない』とブログを始めたのです。日々のことや野球のことなど、いろんなことを綴っていました。途中からは『私は書くことが好きだったのか』ともおっしゃっていましたね。19年にYouTubeチャンネルを立ち上げたのも、時代の流れに乗って野球のすそ野を広げようとしてのことでした。

実績だけ見ればカープのレジェンド。偉そうに立ち振舞う評論家もいるなか、最後までストイックに発信することにこだわりを持ち続けていました」(前出・テレビ局関係者)

病気を公表する前は情報番組で街ブラロケも行うなど、どこまでも気さくなキャラクターだった北別府さん。謹んでお悔やみ申し上げたい。

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