岡田茉莉子、90歳 夫であり、映画監督であった吉田喜重さんと、公私ともに歩んだ60年

夫妻の作品は62年の「秋津温泉」から全11作品。「私たちの子供そのもと」と語る岡田さん

【前編】岡田茉莉子、90歳 最高のパートナーを失っていま「あなた、もっと強い女になるわよ」より続く

どこかでカメラが回っているのかもしれないーー。そう思わせるほどに、時折見かける夫妻の姿は名画のワンシーンのように優華だった。

マンションのエントランスにつながる大階段を上るときは、そっと腕を組む。男性のほうはいつも、イッセイミヤケのダークスーツに身を包み背筋をスッと伸ばし、ひとりのときはさっそうと歩く姿を見かけるのだが、妻を伴っているときは、その歩調に合わせてゆっくりと進む。

夫婦は、映画監督・吉田喜重さん(享年89)と、女優・岡田茉莉子さん(90)である。

岡田さんは18歳で銀幕デビューを飾って以来、小津安二郎、木下惠介といった日本を代表する名監督たちの作品に数多く出演。

なかでも、「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手といわれ、常に新しい試みに挑戦した吉田監督のミューズであり続けた。

吉田監督は岡田さんをヒロインに11本の名作を世に送り出し、国際的にも高い評価を受けている。

04年、記者の引っ越し先のごく近くに夫妻は住んでいた。近くにある老舗のイタリアンレストランで、2人がむつまじく視線を交わし、語り合う姿はまるでフランス映画のようだった。コロナ禍でレストランは閉店してしまい2人の姿が見られなくなり、ようやく収束の兆しを見せた22年12月9日、吉田監督の訃報が伝えられた。

「ただいまって、帰ってきそうで、まだ玄関にスリッパを置いてあります。靴も洋服もそのままにしてあって。墓地は青山にありますが、納骨する気持ちになれず、いまも家のリビングに。彼に朝晩、話しかけています。今日はこんなことがあったのよ、ってねーー」

吉田監督の百箇日法要が執り行われた数日後、インタビュー会場にあらわれた岡田さんは、一瞬、別人のように憔悴して見えた。吉田監督とは比翼の鳥のように2人で生きてきたのだから、いまの状況にもっとも戸惑っているのは岡田さん本人なのだろう。

「私も、ひとりになって自分が自分ではないような、不思議な気がしています」

しかし、そこは大女優だ。インタビューが進むと次第にその瞳は光を放ち、貫禄を取り戻していくように思えた。

■2人は一日でも長く一緒にいようと約束した。だが、別れの朝は突然、訪れた

『秋津温泉』の出会いから、結婚生活は60年に及んだ。鬼才と呼ばれた映画監督と、主演女優の結婚生活は、どんなものだったのか。

吉田監督は「強い女性が好み」だとインタビューで語っている。

岡田さんは「吉田の人柄をたった一言で表すならば『優しい』に尽きます」と語る。

吉田監督の実母は、家族が次々と結核に感染するなかで看護をし、自らも結核に侵され他界してしまった。この原体験から吉田監督は、とりわけ女性には優しかったのだと岡田さんは言う。

「お手伝いさんのいる生家で育ったそうですが、その人がいつも隅で一人で食事をするのはおかしいと思い、『一緒に食べよう』と提案したり。手が荒れているとお小遣いでハンドクリームをプレゼントするような子だったと、吉田の兄弟から伝え聞いたことがあります。弱い女性を見るのはつらくて、その反動で自分の道を切り開いていく強い女性が好みだって」

岡田さんはまさに「自分の道を切り開いてきた」「強い」女性だ。女優の地位向上にも一役買うこんな豪快エピソードも。

「昔は映画界も男尊女卑のしきたりが根強かった。ある東映映画を撮影しているとき、がらっぱちの宣伝マンが『すんませんが、鶴田浩二さんはこちらを歩いていただけますか』と下にも置かない態度で接するのに、私には『あんたはここ歩いてぇな!』とつっけんどんに命令するわけです。私はすぐさま『私に頼んでいるの? だったらそのように言ってください!』と一喝しました。以来、『姐御! お疲れさまでした』と撮影所のスタッフ総出で見送ってくれるようになり、女優の楽屋にも冷蔵庫が入りました。私、がんばりましたよ(笑)」

「強い女性」のイメージと違って実際の結婚生活では、岡田さんは控えめだ。「家に帰るとごく普通の夫婦」であり、「玄関を入った途端に、お互いに仕事の話は一切しない」と徹底していた。

「男の人が家にいるってこんなものなのか、と。ずっと母や叔母との女所帯だったので、それまでにない安心感が得られました」

主演女優となると家事は一切せず、炊事洗濯掃除は家政婦さんが担うことも珍しくはない。しかし岡田さんは「幼少期の経験から家事は苦にならず」むしろ家事を息抜きにしていたとも。

「吉田からも『所帯染みてしまうから、お皿は洗わないで』『靴磨きもしないで』と止められていたため、見つからないように、こっそり済ませることもうまくなりました」

ロケ先でも、吉田さんのズボンに少しでもシワが寄っているのが気になってしまう。ズボンプレッサーを携帯しピンと伸ばして、送り出すのが習慣だった。

「ほかの共演者から『あなたは演技に入る前に、そんなことしているの?』とあきれられました」

女王様然としているのかと思いきや、大抵は岡田さんが夫に合わせる。このスタイルでずっとうまくいっていたのだという。

「夫婦げんかって記憶にないんです。彼は自分の考えを曲げない人だから『さっきあなたにちゃんと説明したよ』と言いだすと、(説明していなくても)『はい、あなたは説明しましたね』と収めて、私は黙ってしまうの。大抵は私が合わせていて。話しかけてくるのもほとんど吉田のほうで、私は聞き役です。世間では反対だと思っているでしょうね(笑)」

とりとめなく思い出を語るとき、岡田さんの瞳は少女のように輝く。

「ウマが合うのは阪神ファンというところかしら。私は判官びいきなので阪神好き、吉田は福井の出身でもともとファン。リビングでわいわい言いながら応援して、勝って拍手するタイミングも、負けちゃってがっかりするのも一緒です」

朝食も、岡田さんは独身時代、和食一辺倒だったが吉田さんが洋食派なのでそれに合わせて。

「前の晩から水に昆布を入れた、根こんぶ水をグラスに注いで手渡すところから始まります。そのあと私がパンを焼きサラダを作って、彼がコーヒーを入れる。これまでずっと2人で健康で過ごせていたのですが……」

2人の間に子はいない。一度だけ長期間ヨーロッパに滞在しテレビドキュメンタリーを撮っている夫にエアメールで「子供が欲しい」と書き送ったことがあった。

「返事はいただきましたがーー」

そう言って、しばし思いをはせる岡田さん。そして力強くこう言葉をつなぐ。

「私たちの子供はいなかったけれど、2人で製作した11本の作品が子供のようなものです」

2人は一日でも長く一緒にいようと約束し、吉田監督は『できれば一緒に死にたい。残されるのはつらいから、一日だけ茉莉子さんよりも早く死にたい』と言っていた。

別れが来ないようにと、2人で健康には人一倍気遣った。コロナ禍では人一緒にワクチン接種をし、ジム通いも欠かさなかった。

「吉田はきちょうめんな人で、通った回数をカウントしていて9千813回。監督業は比較的スケジュールが自由なのでほぼ毎日通えたのね。私はまだ5千回くらい。100歳まで生きても彼を超えることはできそうもないわね」

ー別れの朝は突然訪れた。22年、12月8日の早朝のこと。

「前日までは普通に会話をして『おやすみ』と言って……。翌朝、7時ごろに吉田は起床するなり『だるい』と。これはただ事ではないのだと救急車に乗って病院に到着したものの、待合室で息を引き取ってしまったのです」

その間、夫の手を握り「しっかりして」と声をかけるのがやっとだったという。

「肺炎ということで。まさか亡くなるとは思わず、別れの言葉を交わすこともできませんでした……」

いまの岡田さんにとって忙しさは救い。否応なしに一人で前を向く日が始まっているのだ。

東京と韓国・釜山で吉田監督作品の追悼上映が決まり、いま岡田さんはその準備に追われる。6月17日から「シネマヴェーラ渋谷」で始まる『追悼特集 来るべき吉田喜重』では全22作品が上演され、岡田さんは初日の6月17日、24日、7月2日の3度舞台挨拶に立つ。

夫婦でこの世に送り出した作品が世界のどこかで上映されるために、岡田茉莉子は90歳の今日も現役であり続けるーー。

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