意外に多い「天皇の銅像」 でも、明治天皇はなぜ同じポーズばかり? 顕彰の影にあった「最後の志士」の存在

田中光顕(当時26歳)=高知県佐川町の「青山文庫」蔵

 日本には数多くの銅像が存在する。「東京三大銅像」は、上野公園の西郷隆盛、靖国神社の大村益次郎、皇居外苑の楠木正成で、いずれも明治時代の1890年代に建てられた。
 銅像とはそもそも歴史的な偉人を顕彰するものであり、高知・桂浜の坂本龍馬像などを「日本三大銅像」と呼ぶこともあるようだ。しかし、日本史上では常にこれらの人より上位に存在していた者がいる。言うまでもなく〝天皇〟だ。ならば天皇の銅像もあるのかと言われると、にわかには思い浮かばない。なぜだろう。素朴な疑問を調べてみた。(共同通信=大木賢一)

東京都立川市の昭和天皇記念館には、銅像ではないものの、昭和天皇の大きなレリーフが飾られている=6月15日

 ▽数多い明治天皇像
 「天皇」と「銅像」のイメージは、一般にはあまり結びつかないように感じる。肉体の細部を再現する〝銅像〟は天皇という存在には似つかわしくないのだろうか。
 「たぶんないだろうな」と思いつつ最も関心があった昭和天皇については、ふと思いつき、話題の対話型AI「チャットGPT」で尋ねてみた。すると、「日本国内外でいくつか存在しています」として、「日比谷公園」「日本武道館前」「京都御所」「広島平和祈念公園」などが挙げられていた。
 驚いて確認したが、当然ながらそのような場所にそのようなものはなく、完全な偽情報だった。敗戦と戦争責任の影がつきまとう立場でもあり、銅像になりにくかったのだろうか。結局、ネットなどでいくら調べてもついに見つからなかった。
 対照的に、数多く存在するのは〝栄光の明治〟を体現し「大帝」と呼ばれた明治天皇の像だ。ほかに神武天皇や雄略天皇、継体天皇の像もあるが、明治天皇像は全国に10体以上もあるようだ。
 設置された場所をざっと並べてみるだけでも、青森県八戸市、盛岡市、福島県いわき市、山梨県富士吉田市、愛知県新城市、愛知県日進市、岐阜市、徳島市、那覇市などに建っている。これらの場所は、行幸などのゆかりがあるというわけでもなく、神社や公園が多い。
 建てられた時期を調べると、昭和40~50年代ごろが多いようだ。「明治百年」が昭和43年、つまり1968年だったことと関係しているのかもしれない。例えば福島県いわき市の像については、1970(昭和45)年2月の地元紙「いわき民報」に「建国記念日に除幕式 明治天皇立像が完成」との記事がある。「〝日本人の精神的シンボルを〟という趣旨から」前年に地鎮祭をして建立を進めていたという。また、青森県八戸市の像は、1971(昭和46)年の建立だ。山梨県富士吉田市の像も、銘板に「昭和四拾六年」の文字が見られる。

山梨県富士吉田市の「新倉山浅間公園」に建つ明治天皇像=6月13日

 ▽オリジナルはどこに?
 これらの像を見比べてみて、あることに気付いた。ポーズが同じ。左手にサーベル、右手に羽根飾りの付いた帽子。何かモデルになったオリジナルの像でもあるのかと思い、調べてみた。
 思いついたのは、東京の明治神宮への問い合わせだ。言うまでもなく明治神宮は明治天皇を祭神とする神社で、境内には「明治神宮ミュージアム」もある。銅像があってもおかしくはない。
 予想は的中し、「銅像はないわけではありません。宝物殿にて収蔵・管理しております」と回答された。宝物殿は普段公開されていないが、たまたま年に数度の公開の時期に当たったので見に行ってみた。残念ながら銅像は公開対象にはなっていなかった。
 だが、かつて明治神宮が行った展覧会の図録に、この銅像の写真と説明が載っていた。銅像はもともと明治天皇崩御の直後、英姿を後世に伝えることと、悲しみに沈む昭憲皇太后を慰めることを目的につくられ、1915(大正4)年に宮中に奉納された。その後昭和天皇ご成婚を記念して同じものが作られ、24(大正13)年に再び奉納。この大正13年のものが現在は宝物殿に収蔵されている。図録などによると、天皇の顔を忠実に再現するため、そばに使えた典侍や女官、皇太后の証言が参考にされたという。

銅像があるのは、富士山と五重塔の絶景スポットとして外国人に人気の場所

 宮内庁にも問い合わせてみたが、大正時代に2度奉納されたという点で一致。調べた範囲では、この大正4年のものが「最も古い明治天皇銅像」ということになる。全国に数ある明治天皇像は、この像をモデルにして同じポーズになっているのだろう。「最初の銅像」の制作経緯を調べていったところ、ある明治の顕官の存在に行き当たった。

晩年の田中光顕=出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 ▽土佐勤王党の生き残り
 像の制作を発案し主導したのは、土佐出身で警視総監や宮内大臣などを歴任した田中光顕だった。1843(天保14)年、現在の高知県佐川町に生まれ、武市半平太の土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は、尊王攘夷運動に批判的だった土佐藩参政・吉田東洋を暗殺した実行犯として知られる。
 後に脱藩して長州藩の高杉晋作の弟子となり、新選組に襲撃されかかるなどしたが、幕末の動乱を生き残った。坂本龍馬暗殺では、現場に駆けつけて、重傷の中岡慎太郎から経緯を聞き取った。
 維新後、警視総監、学習院院長などを歴任し、1898(明治31)年から約10年間、宮内大臣を務めた。1939(昭和14)年に97歳の長寿を全うし、「最後の志士」とも呼ばれた。
 明治天皇の信頼が厚く、幕末の志士や天皇の顕彰に熱心だった。日露戦争開戦の直前に、幕末の海軍拡充を図った坂本龍馬が昭憲皇太后の夢枕に立った、との真偽不明の逸話も、維新での土佐の役割を強調したかった田中光顕によって広められた、との説がある。 

旧多摩聖蹟記念館の明治天皇騎馬像=4月20日

▽「水戸学」の地にある〝聖像殿〟
 さらに調べると、田中光顕は明治天皇顕彰のため、1929(昭和4)年に「常陽明治記念館」(茨城県大洗町、現「大洗町幕末と明治の博物館」)を、1930(昭和5)年には「多摩聖蹟記念館」(東京都多摩市、現「旧多摩聖蹟記念館」)を創設していた。
 両館を訪ねると、二つの立派な銅像を目にすることができる。
 大洗は例の「サーベル姿」の等身大像で、関係者は「同じ鋳型から計三つの像がつくられたのではないか」と推測する。とすると、そのうち一つは明治神宮に、一つは大洗に、そしてもう一つはいまだ宮中にある、ということになる。
 田中光顕がわざわざ茨城の地を選んだのはなぜか。同博物館主任学芸員の尾崎久美子さんによると、尊王攘夷思想に多大な影響を与えた「水戸学」にちなんでいるという。天皇の銅像が宮中にあって国民の目に触れないことを残念に思い、銅像を公開し、それを納める「聖像殿」をつくったのが常陽明治記念館の始まりだった。
 一方、多摩の記念館に展示されているのは、高さ3㍍に及ぶ「明治天皇騎馬像」。「サーベル姿」をつくったのと同じ彫刻家渡辺長男(1874―1952年)が、やはり田中光顕の依頼を受けて1930(昭和5)年に制作した。記念館も同時に建てられた。

 

田中光顕(当時26歳)=高知県佐川町の「青山文庫」蔵

 田中光顕は、長刀を差した26歳当時の写真が現在に残されている。まげを結った紛れもない「武士」の姿をじっと見ていると、暗殺や粛正の嵐が吹き荒れた幕末を生き残り、この人物が昭和まで生きたのが信じられない思いがする。

 最晩年、田中光顕はこの若かりし頃の自分の写真にこう揮毫した。「長生きの すべはいかにと人問わば 殺されざりし故と答えむ」

 そうした生々しい歴史を生き抜いた者たちによって宮中の奥深くから引き出され、国の頂点に据えられた天皇という存在が、明治、大正、昭和、平成、令和と続いて、今でも日本の最高権威であることに、私は不思議な感慨を覚えた。

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