小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=15

「偉そうなこと抜かすな。兄貴は親の財産を守ってりゃいい顔やが、俺はお前からもらった猫の額ほどの土地を耕して何ができるんや」

「食べられなけりゃ、酒を止めて真面目に働け」

「お前に俺の気持ち解るものか。あんな勝気な女をあてがいやがって、俺の人生はめちゃめちゃだ。酒を飲まずにいられるか」

「あの女を嫁にしたのは母親だ。お前に丁度いい女ではないか。不服ならその仏壇に焼香でもして母親に毒づけ。気持ちが落ち着くやろ」

 口論は平行する。殴り合いにならなかったのは、兄の腕力がずば抜けていたからであろう。

 戸外で喧嘩を避けていた律子が家に帰ると、茶碗の破片やら電灯の傘などが、あたり一面に散らかっており、既に母屋から帰った田倉は赤い顔で火鉢に座り、煙草をくゆらしていた。母も弟妹もそこにはいなかった。子供たちを連れて家を出るとしたら母には実家しかない。実家はこの村から三キロほど西寄りにある。

 律子は、気が付くと、いつしかその方向にとぼとぼと歩き出していた。本道を行くと遠いので途中から畔道に入った。夜の畔道は歩きにくい。

 しばらく行くと黒い人影が見えた。弟の浩二だった。

「姉ちゃんどこへ行くの」

「お母ちゃんいないから探してるのよ」

「たしか富本の実家へ行ったと思う」

「行ってみようか」

 二人は歩き出した。行く手に大きな池があって、黒々と湛えた水が路傍まで満ちていた。蛙の声がする。その声は淋しさと、悲しみに満ちて聞こえた。唐古といって古代の鏃などが出土する場所で、生活苦の女が身投げしたと言い伝えのある池である。池の中に二本の杭が立っていて、その杭に寄りかかるように黒い物体が浮いていた。律子はぞっとした。ひょっとしたら母の死体ではないかと思ったのである。身体が震えた。しかし、よく見ると、それは鯉の餌として蚕蛹を袋詰めしたものだ。

「もう半分の道はきたね」

 律子は自分自身を励ますように、歯をガタガタ震わせながら言った。

 

    耕地の掟

 

 耕地の監督の吹く起床ラッパが朝のしじまを破って、執拗に鳴った。四時だ。起きねばならないが、連日の疲労で一夜明けてもまだ身体はけだるく、またうとうとと眠ってしまう。ラッパはその怠惰を責めるように鳴り続いた。あちらこちらから夜明けを告げる鶏の声も聞こえている。

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