誰も幸せにならないLGBT法案 住みにくくなる日本 その2

林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・LGBTは生産性がないとの「差別的発想の水脈」は、軍国主義を補完する「富国強兵」の国是をよきものとすることに行き着く。

・法案では「同性カップルなど見るのも嫌」という差別発言を「それは貴方の感想ですから」と不問に付す余地が残された。

・異論噴出の法案を時間をかけて審議することなく成立させる日本の政治こそ抜本的改革が急がれる。

13日、LGBT法案が衆議院を通過した。正式には「性的指向および性同一性に関する国民の理解増進に関する法律」だが、煩雑を避けるため、本項ではLGBT法案で統一させていただく。

今さらながらだが、Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダーの頭文字で、性的マイノリティと呼ばれることも多いが、当事者からは、十把ひとからげみたいな扱いは不愉快だとの声も聞かれるようだ。最近ではまた、自分の性別を認識できない「クエスチョン」という存在にスポットが当てられ、さらには「それ以外の性的マイノリティ」を加えて、LGBTQ+と表記する人も増えつつある。

問題は、この法案が可決に至った過程だが、与党内、具体的には自民党保守派と称される人たちの間では法案自体に反対する意見が聞かれて、採決に際しても、自民党の高鳥修一議員は、おなかが痛いと言って、議場を抜け出してトイレに駆け込み、採決に加わらなかったし(小学生か!)、杉田水脈議員に至っては本会議を欠席した。

彼女については以前にも取り上げたが、LGBTの人たちについて「子供を作らないから生産性がない」などと発言し、その後2022年に、総務大臣政務官に抜擢された後で、以前の発言が「多くの人を傷つけた」として陳謝した。しかし、ちゃんとケジメをつけるつもりはないらしい。

法案の骨子は、LGBTであることなどを理由に解雇されたり、社会的に不利な扱いを受けることに対して法的歯止めをかけることと、そうした人たちの人権を尊重するよう、教育現場などに努力を求めるというもので、これ自体に異論を唱える人は、あまりいないだろう。まあ、だからこそ国会でも賛成多数で通過したわけだが。

自民党保守派や、参政党などが法案に反対した主な理由はふたつある。

紙数の関係上、詳細な引用はできかねるが、かいつまんで紹介させていただくと、ひとつはLGBTを社会的に認知すべきというのは、わが国の伝統的な価値観にそぐわない、といったことで、いまひとつは、肉体的に男性でも「自分は女性」と考えているような人が、女子トイレや公衆浴場の女湯に入れるようになると、性犯罪などの問題が起きやすくなる、ということだ。

まず、前者から見て行くが、そもそも「わが国の伝統」とは、一体いつの時代のことを言っているのだろうか。

わが国は、キリスト教やイスラム教の精神文化にあまり影響されてこなかったという事情もあって、同性愛を罪悪視する発想がそれほど根付いていなかったのが事実である。

サムライが大活躍した戦国時代でも、たとえば加賀百万石の祖である前田利家などは若年の頃、主君・織田信長に幾度となく「寝床で寵された」と伝えられるし、当時はこれをセクハラだの性暴力だのと考える人などいなかったのだ。

天下泰平の江戸時代になっても、今で言うゲイは「衆道」と呼ばれて、とりたてて罪悪視されることもなかった。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一節で有名な『葉隠』でさえ、わざわざ一章を割いて「HOW TO 衆道」みたいなことを記している。

庶民階級でも、そのあたりの事情は似たり寄ったりで、たとえば『東海道中膝栗毛』の弥次さんと喜多さんは、もともとゲイ・カップルであったし、陰間(かげま)と言って、体を売る少年たちも公認されていた。

それが明治期になると、わが国は近代化=西洋化の道を歩むことになり、キリスト教文化圏の価値観が流入し、同性愛は罪悪視されるようになった。さらには富国強兵という国是のもと、男子はお国のために身命を捧げること、女子は「陛下の赤子」を産み育てることこそ美徳なのであると、教育を通じてたたき込まれる、という世の中になったのだ。

以上を要するに、LGBTの人たちは生産性がないなどという「差別的発想の水脈」をたどったならば、軍国主義のイデオロギーを補完する、富国強兵という国是をよきものとすることにしか行き着かないのではないか。

もうひとつの、この法律ができた結果、自分で「心は女性」だとする男性が、銭湯の女湯や女性用の公衆トイレに入ることを止め立てできなくなる、という話について。

これは結論から述べると、デマである。

公衆浴場の側には「営業権」というものがあるので、男性の肉体を持った人が女湯に入ることを禁じるのは、経営者の裁量に任せてよいのだ。これは差別だ、と言って騒ぐ人も中にはいるかも知れないが、他の利用客に迷惑になる行為こそ、法律で禁じられている。端的に、お引き取り下さい、と言われても食い下がるようなら、警察を呼んで不退去罪に問うことができるのである。

現状すでに7歳以上の子供は異性の浴室に入れない、というガイドラインができている。極端なことを言うようだが、性的マイノリティの人たちは多くの場合、子供の頃から自身の性に違和感を抱いている。

かつて『金八先生』のシリーズで、上戸彩が性同一障害の中学生を演じて話題となったが、そういう子供はどうするべきか。そんなことを言い出したら、それこそ収拾がつかなくなるのではないか。

それで思い出されるのは、3月に女優の橋本愛(今年『あまちゃん』が再放送されて、注目度が高まっている)が、公衆浴場やトイレは「体の性に合わせて区分するのがベターだと思う」と自身のインスタグラムに書き込んだところ、差別を助長する発想だとしてバッシングに遭い、最終的に謝罪に追い込まれる、ということがあった。LGBTの人たちの権利拡大を訴える活動家の人たちが、組織的に拡散しバッシングしたものであるらしい。

何派の活動家か知らないが、あんな美人を攻撃するような手合いは、たとえ公安当局が許してもこの林信吾が……などという個人感情レベルの話ではなくて、ネット上でも彼女に同情的というか、謝罪する必要などなかった、というコメントが多数見られた。

真面目な話(私は基本的に、真面目な事しか書かないが)、トイレなど公共の施設に身体が男性の方が入ってきたら

「とても警戒してしまうし、それだけで恐怖心を抱いてしまうと思います」

という彼女の発言は、女性の最大公約数的なものと考えてよいのではないだろうか。

男女が逆の場合でも、実は同様の問題がある。だいぶ前の話だが、いわゆるオネエの人たちがTVの番組内で、

「男銭湯(銭湯の男湯)、天国よ♡」

などと言い交わしているのを聞いて、偏頭痛を起こしかけた。どうしてこんな風に、自分で自分の首を絞めるようなことを公言するだろうか。

裸の男性が周りにいるのは「天国」だと言ってはばからない人たちと、私は一緒に入浴などしたくないし、と言って「女湯に行け!」となったら、それもそれで問題が起きる。とどのつまり、LGBTの人たちを含めた全ての人が、公共心についてもっとよく考えるしかないだろう。

トイレの問題にせよ、最近はこうしたLGBTの人たちへの配慮なのか、都内のある公園に新設された公衆トイレに「女性専用の表示がなかった」という問題が取り沙汰された。

こちらについては、もともと性別が設定されておらず、かつ赤ちゃんのオムツ替えもできれば車椅子での利用も可能という「多目的トイレ」を増やして行けば済む話だろうと、私は考える。

なにより、今次の法案については、当のLGBTの人たちからも、決して歓迎されていないということに、もっと着目しなければいけない。

紙数の関係上、詳細については他のニュースサイトなどを参照していただくしかないが、原案で「差別は許されない」とあったものが「不当な差別はあってはならない」に改変された。そもそも、この世に「正当な差別」などあるのか。これは決して揚げ足を取るようなことではなく、前述の橋本愛の発言は「区別がベター」を「差別の肯定」にすり替えたわけだが、この法案では逆に「同性カップルなど見るのも嫌」という差別発言を「それは貴方の感想ですから」と不問に付す余地が残された。少なくとも、当事者からはそのように受け取られている。

定義も、各自の「性自認」から「ジェンダーアイデンティティー」と言い換えられた。

意味的に同じではないか、との反論もあり得ようが、これはもともと「性同一性」とすべきだとの意見に配慮した、お得意の玉虫色解決に過ぎないのだ。性同一障害であれば、複数の医師による診断が必要とされる。要はLGBTも「一種の障害」だとの誤解を広めてしまうリスクについては、一顧だにされていないと言われても仕方あるまい。

このように、当事者を含めて異論が噴出している法案を、時間をかけて審議することもなく成立させてしまう日本の政治こそ、抜本的な改革が急がれる。いたずらに「世界の大勢」に迎合しても、国民は誰も幸せにならない。

トップ写真:東京レインボープライド2022での行進(2022年4月24日 東京・渋谷区)出典:Photo by Yuichi Yamazaki/Getty Images

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