「鼻出しマスク」でまさかの反則負け3回 将棋の日浦八段は、それでもなぜ鼻出しにこだわったのか 「脳へのダメージ」と「排除する空気」の深刻さ

 今年1月10日、大阪市福島区の関西将棋会館。対局室では日浦市郎八段と平藤真吾七段が将棋盤を挟んで闘っていた。順位戦C級1組の対局だ。新型コロナウイルス禍で、両者ともマスクを着用している。違いは、日浦八段が口元だけを覆う「鼻出しマスク」状態である点。対局の立会人からは、何度となく「鼻もマスクで覆ってください」と注意を受けた。日浦さんはその都度、こう返答した。
 「しません」「拒否します」
 すると日本将棋連盟の理事が現れ、立会人、対局相手の平藤七段と3人で協議を始めた。対局室で待つこと約40分。立会人が結果を告げた。「反則負けにします」
 日浦さんは予想外の宣告に驚いた。
 「まさか反則負けになるなんて思ってもいなかった」(共同通信=宮本寛)

八段の日浦市郎さん=5月、東京都新宿区

 ▽着用義務の規定はもちろん知っていた
 日本将棋連盟は2022年1月、マスク着用を義務化する「臨時対局規定」を策定し、翌2月から実施していた。その第1条にはこう記されている。
 「対局者は、対局中は、一時的な場合を除き、マスク(原則として不織布)を着用しなければならない。ただし、健康上やむを得ない理由があり、かつ、あらかじめ届け出て、常務会の承認を得た場合は、この限りではない」
 日浦さんはもちろん、この規定の存在を知らなかったわけではない。それでも反則負けの宣告には驚いた。「規定ができた時点で何度も目を通したが、『鼻を出してはいけない』とは書かれていない。飲食も制限されておらず、緩い運用だと考えていた」
 納得がいかない日浦さんは2月1日の第49期「棋王戦コナミグループ杯予選」でも鼻出しマスク。初手を指すと、対局相手の三枚堂達也七段が立会人に訴え出た。2回目の反則負けとなった。
 さらに2月7日の順位戦C級1組の10回戦でも、三たび「鼻出し」。これに対し、対局相手の村田顕弘六段は特に抗議をせず、差し手が進む。ただ、10手ほど進んだところで立会人が部屋に入ってきた。マスクで鼻を覆うよう求められたが、日浦さんはやはり応じない。3回目の反則負けとなった。
 かたくなにルールに従わないのは、一見すると身勝手に思えるが、これには経緯がある。「臨時規定ができた時から、私は何度も連盟の理事らに『撤回すべきだ』と訴えていた。この時点で、すでに連盟との間に軋轢が生まれていた。これはもう闘うしかないと思った」

鼻出しマスクのイメージ

 ▽マスクで「最善手が減少」という科学的根拠
 話はマスク着用を義務づける規定ができた当時にさかのぼる。
 日浦さんによると、規定は現役棋士らに聞き取りやアンケートをせずに作成された。「私たち現場の意見をまったく聞かず、一方的に押しつけられた」
 反発を覚えたのは、職業として生活をかけて闘う棋士のプライドからだ。
 「プロの真剣勝負の場で、マスクを強要するのはありえない」
 将棋は朝から晩まで、長いときには対局が12時間以上にも及ぶ激しい消耗戦だ。対局相手の特徴を調べ、体調を整えて臨む。一手ごとに局面が変化し、先を予想して最善手を導き出すために脳をフル稼働させる。
 マスクをすれば酸素が欠乏し、集中力をそがれる。人によっては頭痛も生じる。
 日浦さんが調べた結果、こんな根拠があった。
 チェスの選手で、クイーンズランド大の研究者でもあるデビッド・スメルドン氏は2022年10月末、マスクを着用すると「最善手を指す割合」が21%低下したという研究結果を米科学アカデミー紀要に発表したのだ。
 「棋士として、脳への影響にはデリケートになる。マスク着用による酸素欠乏が脳に与える悪影響は、すぐにはわからず自覚もないだろう。だからこそ怖いのです」

 ▽「マスクでコロナは防げるのか」という疑念
 それでも、マスクが感染を防ぐために真に有効なのであれば、たとえ最善手を指せなくなったとしても仕方がないのかもしれない。
 日浦さんがマスクを疑うようになったのは、自身が2021年夏に新型コロナウイルスに感染したためだ。PCR検査で陽性となった当時、日浦さんは他人との接触を控え、いつもマスクを鼻まで覆って着用していた。そこで一つの疑問が芽生えた。「マスクでコロナは防げるのか」
 政府や専門家会議の発表資料やマスコミの報道だけではなく、国内外のさまざまな科学論文を読みあさり、専門家らの講演会にも足を運んだ末、たどり着いた結論は「マスクでは防げない」だった。
 日本将棋連盟が規定を策定した時期にも疑問を持った。感染拡大が始まったのは2020年。策定時期の2年前だ。「コロナ流行を理由にするのであれば、なぜもっと早く作らなかったのか。2022年1月末には緊急事態宣言も終結し、感染の主流もデルタ株から重症度が低いオミクロン株に移っていた。欧米では対策をやめ始めたころだ」

マスク着用を義務づけた臨時対局規定

 ▽連盟との「溝」が埋まらない
 日浦さんが公の場でマスク着用義務の規定に抗議したのは、策定から約4カ月後の2022年5月だ。
 日本将棋連盟の運営について話し合う会合があり、棋士が直接、理事会に質問できる場だった。
 「マスクに感染予防効果があると思いますか」。日浦さんが尋ねると、ある役員はこう答えた。「分かりません」
 マスクに効果がないことを示す資料も持参したが、誰も目を通そうとしない。後日、同じ疑問をぶつけた別の役員はこう言い放ったという。「そういうことはね、この際、話をしてもしょうがない」
 反則負けを2回経験した後、3回目の対局を迎える前日の今年2月6日。東京都内にある法律事務所を訪れた。連盟から反則負けに対する抗議を伝えるよう指示されたためだった。
 3人の弁護士を前に、マスク着用義務が書かれた規定を見せて尋ねた。「鼻出しマスクが禁止だと、この文書から読み取れますか」。すると弁護士の一人は言い切った。
 「読めます」
 弁護士らが退出すると、事務所で待機していたという日本将棋連盟会長ら幹部2人が現れ、日浦さんに告げた。「明日は対局ですが、きちんと鼻までマスクをしてください」
 「お断りします」と応じると、こう警告された。
 「もし今度やったら処分することもありえますよ」
 とっさに日浦さんは叫んだ。
 「私は連盟の奴隷ではない。子どものケンカじゃないんだ」

将棋会館=2020年撮影、東京都渋谷区

 ▽「対局放棄と見なす」
 翌7日、前述した通り、3回目の反則負けとなった。連盟は日浦さんに懲戒処分を出す前段階として、「倫理委員会」に判断を求めた。
 倫理委員会が設けた弁明の場で、日浦さんは改めてマスクの科学的根拠に関する疑念を伝えた。その上で「マスクの強要は人権侵害だと思います」と主張すると、委員として出席していたある弁護士はこう切り捨てたという。
 「人権侵害というのは政府がやるものですよ」
 日浦さんには意味が分からなかったが、自分たちは政府の要請に従っているだけだと言い訳をしているように感じた。
 2月13日、倫理委員会の答申を受けた理事会は、3カ月の出場停止処分を決定した。
 日浦さんが受け取った通知書によると、処分の理由としておおむねこう書かれていた。
「マスクの着用義務、立会人の処置および裁定に従う義務、棋士の公務に違反し、連盟の目的に反する行為をした」「実質的な対局の放棄を行った」
 日浦さんが繰り返し訴えたマスクの感染防止効果などの根拠に関する見解はひと言も触れていない。やむなくしていた「鼻出しマスク」も全力で対局に臨むためだったが、「放棄」と見なされた。
 「連盟は最初から私の抗議を聞く耳はなかった。処分ありきだったのは明らかだ」

日浦さんに対する懲戒処分通知書

 ▽鼻出し棋士はほかにも…実は狙い撃ち?
 日浦さんには懲戒処分について、どうしても拭えない疑問がある。それは自分だけが「狙い撃ち」をされたのではないかということだ。
 日浦さんによると、規定ができた後、「鼻出しマスク」をして対局していた棋士は、日浦さん以外にも何人もいたという。ここでは名前を伏せるが、3人の氏名を打ち明けてくれた。証拠の写真もあるという。そのうちの一人は、日浦さんに反則負けを宣言した立会人だ。
 「連盟は、規定を作っただけでチェックまではしていない。それにも関わらず、私の3回目の反則負けの際は、対局相手からの抗議がなくても立会人がいきなり入ってきて反則負けとされたのです」
 納得がいかない日浦さんは6月、日本将棋連盟に損害賠償を求める訴訟を起こした。「損害」とは、出場停止処分によって「不戦敗」とされ、受け取れなかった対局料や精神的苦痛だ。

東京地裁、東京高裁などが入る裁判所合同庁舎=2013年、東京・霞が関

 ▽「反則負け」は棋士生命に関わる痛み
 プロ棋士には「強制引退ルール」という特殊な決まりがある。
 男性棋士の場合、奨励会を経て四段になると正会員、いわゆるプロ棋士になり、公式戦に出場できる。
 成績が良ければ、上位のクラスに上がり、悪ければ降格する。名人戦順位戦ではA級が最上位で、その頂点が名人だ。A級の下にB級1組、2組があり、さらにC級1組、2組と続く。年間10戦で、B級2組より下位のクラスでは、戦績がおおむね2勝8敗以下だと降級点が一つ与えられ、二つたまれば降級となる。C級2位で降級点が三つたまると「フリークラス」となり、在籍年数か定年で強制的に引退しなければならず、二度とプロ棋士には戻れない仕組みだ。
 かつて名人や棋王、王将などのタイトルを獲得し、「ひふみん」の愛称で名物解説者として親しまれる加藤一二三さんも、このルールによって引退していった。
 だからこそ、反則負けや不戦敗は日浦さんにとって痛手でしかない。
 それでも鼻出しを貫いたのはこんな思いからだ。
 「既に1年以上も抗議し続け、無視されてきた。とてもじゃないが、連盟の命令には従えない」
 思うように指せない焦りやいらだちもあったという。「50代後半という年齢に加え、マスクが嫌すぎて指し方がどうしても淡泊になってしまうのです」
 「淡泊」とはどういうことなのか。日浦さんによると、将棋の指し方には長期戦用と短期戦用があり、実力者は長期戦になってもいいように、少しずつポイントを稼いでいくように対局を進めるという。ところが、日浦さんはマスクが気になって「早く終わらせたい」という気持ちが高じ、短期決戦を選びがちになり、不利な展開が増えていった。

日浦さんが日本将棋連盟を訴えた訴状

 ▽届いた手紙を力に
 訴訟は今後、どう進むのか。代理人の桜井康統弁護士は争点についてこう指摘する。「報道されて批判を浴び、傷ついた日浦さんの名誉回復のためにも、反則負けと懲戒処分の違法性を問います。そもそも、連盟の規定には『鼻出し』禁止に関する記述がない。マスク自体は着用していたのだから、規定違反はなく、反則負けはもちろん、懲戒処分はやり過ぎです」

 自分が所属する組織を一人で敵に回すことを決めた日浦さんの元には、こんな手紙が届いた。
 「応援しています。子どもがいますが、いつになったらマスクを外してあげられるのか…」
 日浦さんはこう話す。「声を上げにくい雰囲気ができあがった世の中で、声を上げることのできない人のためにも闘いたい」

・あいさつする日本将棋連盟の羽生善治新会長=6月10日、東京都渋谷区

 ▽連盟の見解は…
 日本将棋連盟は6月9日、新会長に羽生善治九段が就任した。言わずと知れた、史上初のタイトル七冠を達成したレジェンドだ。
 日浦さんによる提訴や、前会長時代のマスクルールや反則負けの是非に対する見解を連盟に尋ねたが、こんな返事だった。「訴状が届いていないため、回答は差し控えさせていただきます」

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