「スベるもウケるも全部1人がいい」話題のピン芸人・街裏ぴんくが語った“漫談”への覚悟

「素直に自信がつきましたね。色んな人がいる大会で、『R-1』よりエントリー者数は少なかったけど、今までの人生の中でも優勝できるってなかなかない経験だったので」

こう語るのは、お笑い芸人・街裏ぴんく(38)。ファンタジックな“ホラ漫談”でファンを増やし、昨年は芸歴11年以上のピン芸日本一決定戦「Be-1グランプリ」で頂点に輝いた(以下、カッコ内は街裏)。

大阪で活動していたコンビ解散後、街裏が漫談を始めたのは’08年。当初は実際の出来事をベースに捲し立てるという“ぼやき芸”だったが、現在のスタイルを確立するまでは紆余曲折あった。

「ぼやき芸は大阪ではウケていたんですが、’12年に上京してからは全然ウケなかったんです。落ち込んでいた時に、『浅草リトルシアター』がエントリー代なしでも1日3、4回出演できると知って出始めました。その時に漫談以外やりたいことを全部捨てたんですね。『どうやったら東京で漫談がウケるんや』と模索して、色んな漫談が出来たんですよ。徐々に自分の話芸も上達してきて、ぼやきがウケるようになってきたんです。でも、本当にやりたいのは今やっているファンタジックな漫談だったんですが、とにかくウケなければ生き残っていけなかったんで。その時に『俺は漫談家として生きていくんや』と強く思いましたね」

転機が訪れたのは’14年。当時、浅草の舞台以外に月20本ものライブをこなし、ストイックに芸を追求していた頃だった。

「月20本やってるライブに『Aマッソ』が面識のない状態で見に来て、僕も彼女たちの存在を知ってるから『なんでAマッソ来てんねん!』って驚いて……。それから’15年に入って少し経った頃、Aマッソの主催ライブ『バスク』に誘ってもらったんですよね。彼女たちは僕がどんな漫談をやるのかを見に来て、その上でライブに呼んでくれたんです」

当時はまだ出場資格のあった「R-1グランプリ」を突破するため、10カ月で200本ものネタを作っていたという。その地道な努力が、代表作の一つである「ホイップクリーム』を生み出した。

「200本中にあるファンタジー漫談のなかから、お客さんに『どれが面白かったですか?』と感想を聞いて統計を取っていたんです。その統計で一番評価が高かった且つ、自分がやりたいネタとして、『ホイップクリーム』っていう漫談を選びました。それを『バスク』で披露したら、人生で一番ウケたんですよ! 自分の芸風という意味では、この時が本当に転機ですね。『ファンタジー漫談でイケるぞ!』って自信がついて、『それしかやらん、それを追求する』って決意しました」

■ユニットを組んで「M-1」に挑戦も「やっぱり自分はピン芸人なんだな」

一方、「バスク」で手応えを得るまでは、毎年エントリーし続けてきた「R-1」も苦戦を強いられてきたという。

「毎月20本のライブをやっていた’14年は、2回戦落ちでした。漫談を200本も作ってきたのに、2回戦で歌ネタをやってしまったんですよね。やっぱり自信がなかったんですよね、2回戦っていうぶち破ったことのない壁に。『R-1』という老若男女にウケなければいけない場所に、持っていくような漫談がなかったというか……。僕を好きな人は笑ってくれたんですが、歌ネタで落ちてしまいめちゃくちゃ悔しかったですね。自信を持ってからは進めるようになって、’19年に初めて準決勝までいけたのが最高成績です」

しかしながら、’21年に「R-1」の出場資格が変更され「Be-1」への挑戦に転換。そして昨年、優勝をつかみ取ったのだった。’21年には元「ジャリズム」で現在は本誌記者としても活動するインタビューマン山下氏(54)とユニットを組み、「M-1グランプリ」にも挑んだ。

「山下さんから『M-1』に誘ってもらった時は、ビックリしました。お互いにSNSはフォローし合っていたんですが、全く面識のない状態だったんです。山下さんからDMで『僕がツッコミとして入らせてもらいたい』と、僕の漫談に山下さんのツッコミを加えた台本を送って下さったんです。でも、憧れの存在だった人が声かけてくれるのは嬉しかったんですが、『これは大丈夫なのかな』って。1週間ほどじっくりと考えた末、『芸人として経験として、これは乗っておくでしょ』と承諾しました」

自らの漫談を漫才にアレンジして挑んだ「M-1」だったが、思うように爆発を起こせなかったという。

「やるからには全力でやろうと思って取り組んだのですが、芸の上でなかなか難しい部分もありました。爆発を起こせないみたいな。1人で大声出してやった方が『どの熱量で嘘を言うてんねん』というのが直に伝わって、笑いが起きたりすることもあります。でも漫才でやるってなると、『よくあるやつやんね』ってフラットな反応をされてしまう。もちろん山下さんのツッコミも巧みで、漫談ではウケないくだりが山下さんのツッコミでウケたとか。そういう発見もあって、めちゃくちゃ楽しかったんですけどね」

だがこの経験によって、ピンで活動することの意義に改めて気づくことに。

「やっぱり自分はピン芸人なんだなって思いましたね。1人で何もかも考えて、1人でしゃべって、スベるもウケるも全部1人がいいなって思いました。横に人がいないからコンビネーションを見せなくていい分、気を使わずにアドリブも言える。思いついちゃったら言える。それでスベるもウケるも自分、というのが楽しくてしゃあないですわ。僕は漫談が天職です。やっぱり芸人は100%出せないとダメだと思うんですよね。何かに気を使って、70%、80%しか出てない状態ってもったいない無いと思います」

■「深夜の4時半くらいに僕の番組ができたら、もう死んでもいい(笑)」

6月24日には、上京してから15回目となる漫談独演会『Little theateR』を東京・浅草の「雷5656会館 ときわホール」で開催する街裏。現在、ホールで開催する独演会は3カ月に1回と、他の芸人と比べてもハイペースな印象だ。

それでも「前回から次回の独演会までの3カ月の間にできた新作を入れるようにしています」と、常に新ネタを作る努力を欠かさない。「どれだけ色んな話を書けるかという戦いはずっとしている」と“生みの苦しみ”を抱える一方、ネタを昇華させている実感もあるようだ。

「色んな種類の漫談を作ることによって、どんどん成長していってると思うんです。自分でも驚いてますね、ファンタジーの1人しゃべりでここまで色んな種類のネタが作れたっていうのは驕りですけど。やり始めた時は、ここまでできるとは思ってなかったかもしれません。よくないところを削ぎ落とし続けてるから、進化してる。円を描きながらどんどん上にあがっていってるイメージです」

そんな街裏に「もっとも影響を受けた芸人は?」と尋ねると、「一番はダウンタウンですね」と明かした。

「『ガキの使い』のハガキトークというコーナーで、視聴者が投稿した無茶振りに対して松本さんが嘘で話を作っていく。それを浜田さんがツッコんでいくのが好きでした。録画したビデオを夜通し一人暮らしの家で見て、寝る時も流してましたね。2人のあの感じ、ネタの内容、全て含めて大好きで。あれが『嘘をしゃべる』ということに対して、魅力が湧いた瞬間でした」

最後に、今後について聞いてみると。

「漫談でやってきたい。絶対いけると思ってるんで。深夜の4時半くらいに僕の番組ができたら、もう死んでもいい(笑)。どこで誰が見てるかわからんから、どこでどんなオファーがあるかわからんから。その時に備えて、『こんなことを1人しゃべりでできるんだぞ』っていう名作を生むしかないと思ってます。’15年にやった『ホイップクリーム』の漫談での、『こんな奴おったんか』みたいな爆発力は越えられてないんですよね。びっくりさせながら笑わせるみたいな。そこを埋めることができたら、絶対に自分の存在が知れ渡ると信じてます」

“孤高の漫談家”街裏ぴんくの信念が揺らぐことは決してないーー。

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