小2で亡くなった友へ 宮森小米軍機墜落64年 病気で10キロ以上減も慰霊祭に足を運んだ男性の思い

 1959年の石川・宮森米軍ジェット機墜落事故から30日で64年がたった。同日、沖縄県うるま市の宮森小学校で開催された慰霊祭に参加した石川正行さん(71)=うるま市=は、事故当時宮森小の2年生。同級生7人(うち一人は後遺症)が亡くなった。2年前に肺炎を患い、体重は10キロ以上減った。それでも「亡くなった友人のため」と慰霊祭に数年ぶりに足を運んだ。

 石川さんは当時2年3組だった。ジェット機が墜落したのは脱脂粉乳を溶かしたミルク給食の時間だった。ミルクを一気飲みし、教室を出て運動場に向かっていた。その時、後ろから火の粉が飛んできたという。2年3組があった校舎は機体からまき散らされた大量の燃料で激しく炎上し、2年生7人が亡くなっている。

 火事だと思いかばんを取りに戻った。途中の水道で教師が全身黒焦げになった人に水をかけている光景を目撃する。教師に「逃げなさい」と言われ「戦争が始まったと思った」と話す。石川川を超えて山に逃げた。午後9時ごろまで山にこもり、火が収まるのを待った。

 同級生が亡くなったのを知ったのは学校が再開してからだ。「とにかく衝撃がすごくて…」と目に涙を浮かべ、言葉を詰まらせた。大やけどを負い、後遺症で亡くなった同級生の新垣晃さんとはとても親しかった。石川さんは当時小柄で「いじめられていた」と話す。新垣さんが「いつもそばにいて助けてくれた」と思い出を語った。

 慰霊祭には毎年来ていたがコロナの影響と肺炎で入院したためにしばらく参加できなかった。体重は10キロ以上減った。「(痩せた姿を)見られるのが恥ずかしい」との思いで今回の参加も悩んだが「生きているだけでいい。小さいことを気にして行かなかったら後悔する」と思った。

 宮森小の同級生たちは「成長に寄り添ってくれた」と話す。大切な存在を失った経験から、4歳の孫に「周りの人と協調して友達をたくさんつくりなさい」と伝えている。メモ書き程度としながらも、自身の体験も残すようにしているという。

 慰霊祭の最中にも米軍機のごう音が響いた。「こういう時くらい全面ストップしてほしい」と話す。米軍機の音が聞こえると事故が起きるのではないかと不安になり、見に行ってしまう。「忘れてほしくない。どうすれば防げたかを考えてほしい」と若い世代に思いを伝えた。

(金盛文香)

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