“悪い種子”という決めつけが子供を傷つける カンヌ受賞『怪物』『誰も知らない』ほか日本映画から「社会派ドラマ」の真髄を探る

©2023「怪物」製作委員会

社会派ドラマの真髄とは何か

以前、大学の映画史講義で、地下鉄車内でチンピラに脅される乗客たちの恐怖を描いた『ある戦慄』(1967年)を見せたら、「見たこともない映像を見られるわけでもなく、見ていて嫌な気持ちにしかならないこんな映画をなぜ作ったのか?」と感想を述べた学生がいた。SFヒーロー映画的なものばかりが持て囃される時代の学生にとって、映画とは“ファンタスティックな映像や正義が悪に勝つ世界観を提供してくれるもの”になっているのかもしれない。

だが当然ながら、映画には現実社会の様々な問題点を鋭くえぐり、深く考えさせるタイプのものも沢山ある。そんな“社会派ドラマ”といわれるジャンルの作品は、国籍を問わず観客に広く支持されることがある。2023年のカンヌ国際映画祭で脚本賞を獲った是枝裕和監督の『怪物』もそんなタイプの映画だが、今回は近年の社会派ドラマを紹介しつつ、その神髄とは何かを考えてみたい。

※物語の内容に一部触れています。ご注意ください。

『怪物』:モンスターペアレンツ、モラハラ体罰教師、いじめ、そして悪い種子

『怪物』は、小学五年生の二人の少年とその周囲の大人の物語。同じ物語が、初めは少年の母親の視点で、次に担任教師の視点、最後には少年たち自身の視点で描かれる。つまり、黒澤明監督の『羅生門』(1950年)スタイルなのだが、驚かされるのは、視点を変えるとこんなにも世の中が違って見えるのか、という圧倒的なリアル感だ。

母親(安藤サクラ)目線だと、息子の様子がおかしいのはいじめに遭っているからではと心配し、「“脳が豚のものと入れ替えられた”と担任から言われた」という息子の言葉を信じて教師に詰め寄る。その様子は傍から見るとモンスターペアレンツだが、観客は母親の視点で物語を見ているので、むしろ息子を守ろうと必死な母親に共感する。

担任(永山瑛太)は反省の態度どころか、悪いのはいじめをしている息子さんの方だと主張し、校長(田中裕子)以下の他の教員たちは杓子定規に心の籠っていない謝罪に終始し、その様子は母親からは“怪物”のように見える。

一方、担任の視点で物事を見てみると、事実はまったく違う。子供たちの嘘によってモラハラ体罰教師のレッテルを貼られた彼は、メディアの批判に晒され、また父兄たちの心無い噂話によって、その人格までも否定されていく。観客は、今度は熱血先生が周囲の悪意によってすべてを失ってしまう様を追体験させられるのだ。

最後の、子供たちの視点がこの作品のキモなのだが、ネタバレになってしまうので実際に作品を観て頂きたい。ただし、大人たちはみな、自分は正しいと思い込むことによって自分自身の中にある“モンスター性”に気が付かないということ、大人とは全く異なる世界の住人である子供たちは、大人が言うことを聞かない子供を“悪い種子”と決めつけることで心に傷を作る、ということが鍵となってくる。

坂元裕二の脚本は「こういう人、いるよなあ」と思わせるリアルな人物造形で、演じている粒揃いの役者陣の演技力も相俟って圧巻だ。そして、見終わった時に、もしかしたら自分も異なる立場の人から“怪物”に見えるような行動をとっている瞬間があるかもしれないと、ふっと考えさせる。

『誰も知らない』:育児放棄という現実、他人と関わろうとしない社会の無関心

『怪物』の是枝裕和監督は、これまでにも数々の社会派ドラマの傑作を世に問うてきた。『そして父になる』(2013年)では病院での赤ん坊の取り違えというテーマを、『万引き家族』(2018年)では社会の底辺で万引きしながら互いに支えあう疑似家族を描くことで、それがセーフティネットから弾き出された社会的弱者同士の絆の形であることを示した。

そんな中で、『誰も知らない』(2004年)は、母親の育児放棄によって子供たちだけ取り残された過酷な状況の中で、子供たちが必死にサバイブしようとする様子に寄り添って物語を紡いでいく。

それぞれに父親の違う子供4人を産んだ母親(YOU)は、新しいアパートに母子二人の家庭と噓をついて入居。長男の明(柳楽優弥)に弟妹たちの面倒を見させてパートで働くが、やがて新しい恋人を作って同棲し始め、アパートに帰ってこなくなる。子供たちは学校に行かせてもらったこともなく、時たま母親から送られてくる生活費だけが頼りだったが、やがてそれも滞るようになる。

長男として弟妹たちを守ろうとする明は弟妹の父親を訪ねてお金を無心するものの、やがて取り返しがつかない悲劇に見舞われる。……というストーリーで、是枝監督の評価を決定的にしたのみならず、当時14歳の柳楽優弥がカンヌ国際映画祭で史上最年少の主演男優賞を獲ったことも話題になった。

だが、世界中の映画ファンに支持された最大の理由は、やはり本作が描こうとした現代社会の負の側面への共感だったはず。つまり他人に無関心で、困っている人だと直感しても関わりあうのが嫌で見て見ぬふりをするような、都会に暮らす人間のリアリティだ。もちろん本作の中には、明に児童相談所へ行くことを勧めたり、賞味期限切れの弁当をくれるコンビニ店員などは出てくるが、そういった小さな親切だけでは、やがて起こる大きな悲劇は防ぎようもない。

育児放棄の母親を糾弾したり社会のセーフティネットを完備さえすればいいのではなく、一人一人がコミュニティの一員としての自覚をもって、他人との関わりを避けずに生きることの大切さを、見終わってひしひしと感じるのだ。

『葛城事件』:DV夫、精神を病む妻、リストラの末の自殺、無差別大量殺人

『葛城事件』(2016年)もまた、壮絶極まりない物語。描かれるのは、亭主関白で自分の考えを絶対的なものとして家族に君臨する父親、そんな夫に口答えできない気弱な母親、父の期待に応えようとする優等生の長男、父に反発し敢えて目的も持たず無為に生きる次男、というどこにでもいそうな四人家族。……そんな、誰にでもある程度思い当たるような家族関係が、社会をも巻き込んで一気に崩壊していく物語を脚本・監督として作り上げたのは、劇団<THE SHAMPOO HAT>を率いる赤堀雅秋だ。

山口百恵との一連の競演作で爽やかな青年役を演じてきた三浦友和が、過去のイメージをかなぐり捨てて演じる暴君の父親像が圧巻。だが、次第に精神を病んでいく母親役の南果歩、会社をリストラされたのに妻にそのことを打ち明けられずに公園で時間をつぶす日々を送り、自殺してしまう長男・保役の新井浩文、自分の居場所を見つけられずに最終的に無差別連続殺傷事件を起こす次男・稔役の若葉竜也と、どの登場人物も身の回りに現実にいそうなキャラクターだ。

ここで描かれる“闇”とは、結果として社会の耳目を集める無差別連続殺傷事件よりも、その事件を起こす青年のメンタルを育んだ家庭環境であり、自分は何一つ悪くないと思って生きている人々の心の闇が周囲にまで毒をまき散らし、知らぬうちに他人を傷つけているのではないか、という見立てだろう。

その意味で、崩壊していく4人家族の面々だけでなく、人権活動家として稔と獄中結婚することで彼を救おうとする死刑廃止論者(田中麗奈)もまた、自分勝手な正義感を振りかざして自己満足を得ているだけの迷惑者以外の何物でもなく、そのために自身の両親との関係を断ち切っている点で、周囲の人間たちを平気で傷つける病んだ存在として描かれている。

『護られなかった者たちへ』:行政側の“性悪説的な不作為”というリアル

数々の話題作を送り続ける瀬々敬久監督が、中山七里の原作を基に手掛けた『護られなかった者たちへ』(2021年)は、『誰も知らない』や『葛城事件』と比較すると豪華スター陣の競演、犯人は誰なのかという謎解きの要素を含むストーリー、という点でよりエンターテインメント的要素も多い構えの作品だ。しかし、その根底にある問題意識は、日本社会に確実に存在する“貧困”と、社会のセーフティネットとしての生活保護制度の運用に関しての、行政側の性悪説的な不作為というリアルな現実である。

生活保護費の不正受給問題はメディアでもよく取り上げられるし、ある芸能人はその母親が不正受給していた事実を叩かれて芸能活動自粛を迫られたりしている。そういった“不正は許すまじ”という自粛警察的な世の中の風潮に後押しされてか、行政側の対応というのも“疑わしきは難癖をつけて門前払いすべし”とばかりに、困っている可能性のある人を助けることよりも自分たちの組織が批判に晒されないことばかりが目的化していく。

そうした不作為が、結果として本当に困っている人の最後の望みさえも断ち切ってしまうという現実を、ここでは東日本大震災の後の混乱の中、肩寄せ合って過ごした、ある年配女性とそれぞれに身寄りをなくした青年と少女という疑似的な家族三人の絆、そして行政の不作為に対する復讐の物語として描いている。

移民申請に際して三度目の申請で新たな証拠を提出できない場合は本国へ強制送還することを主眼として、つい先日改悪された入管法にも同様の性悪説が根底にあるように思えてならない。

『ドライブ・マイ・カー』:直視したくない現実から目を背けるのは罪か?

今回取り上げた他の作品と比べると、『ドライブ・マイ・カー』は“社会派ドラマ”に入るのか微妙かもしれない。村上春樹の原作(同題の短編に他の短編の要素を付加)も、濱口竜介監督のアプローチも、社会の問題点をあぶりだすというのではなく、二人の主人公それぞれの抱える心の闇とその救済、という内向的な物語だからだ。

だが、広島国際演劇祭での演出のために長期滞在する売れっ子舞台演出家の主人公・家福(西島秀俊)と、彼の専属ドライバーとして雇われたみさき(三浦透子)が心に蓋をして閉じ込めていた感情(原罪意識)は、二人ほど劇的な形ではないにしろ多かれ少なかれ誰もが持っていて、かつそこから目を背けているものなのかもしれない。

家福の場合、妻の浮気を見て見ぬふりをしていたことが却って妻を苦しめ、その突然の死の遠因になったのではという意識。みさきの場合は、死んでしまえばいいのにと密かに願っていた、自分を虐待していた母親が、実際に地滑りで土砂に飲み込まれて死んだことを、どう心の中で折り合いをつけるか、という問題。……直視したくない現実から目を背けて心の平穏を保とうとすることは、罪といえるのか?

こうして、“社会派ドラマ”の傑作と言われる近年の作品を改めて振り返ってみると、確かな共通点がありそうだ。それは、世の中の仕組みや人の対応などで苛立ちを覚えるような、いわゆる“あるある”で共感を得させるだけでなく、その先に観客自身の “自分ごと”として考えさせるだけの余裕・余韻を持ち得ているということ。それが“社会派ドラマ”の神髄ではないだろうか。

文:谷川建司

『怪物』は全国公開中

『誰も知らない』『ドライブ・マイ・カー』はCS映画専門チャンネル ムービープラスで2023年7月放送

© ディスカバリー・ジャパン株式会社