「画になる旅の趣」肱川街道写真紀行 第2章 「名場面を創る」城下町大洲編

第2章 「名場面を創る」城下町大洲編

嫌いではなかった歴史だが、私もかつて先人諸氏が描き残された史料や伝えられている歴史的な出来事を探り、この町を知ることから始めた。それが現代のまちづくりにとってどれほど大切か、その時は何も考えられなかったが。

気動車が鉄橋を音立てて通る城下町大洲の朝

話は遡る。幕末の混乱の中、後に小藩の名君と謳われた大洲藩第13代藩主加藤泰秋は、父の11代藩主加藤泰幹(やすもと)と兄で12代藩主加藤泰祉(やすとみ)の意思を受け継ぎ、長州と土州の連携構築のために部下を走らせていた。

以下は、1935(昭和10)年に鉄道開通記念で発刊された「大洲案内」という小冊子に掲載されていた“真の伊予の小京都「大洲の四季」”から抜粋したものだ。

春は花、夫れ公園の桃、桜、酒の筵に歌舞の宴、こころ陽気に浮き立ちつ・・・

夏は舟、鮎狩り納涼み一つとして趣味ならぬはなきも、暑さ忘れた肱川風の夕暮れ・・・

秋は川、両岸至る處の色、錦繍の紅葉に能く如法寺山の月影や・・・

冬は雪、高山渡し場不可ならざるも、亀山より見た積む銀世界の臥龍の景色・・・

名鵜匠山中年治が撮らせてくれた名場面

1935年10月に伊予大洲駅まで国鉄が開通したことで高松から大洲までが一本の線路で結ばれた。当時を思えば地域は沸きに沸き経済効果に期待を寄せて多くの市民が喜んだにちがいない。その思いが「大洲案内」という冊子に込められていたのだ。

あの頃から今を考える。これは、時のまちづくりにとって最も大切にしなければならないことだ。「地域創生の基本はここにある」と約20数年に及ぶ現場経験で得た私の実践理論の軸である。あの頃がどうであったのか。当時の人々が何を期待し、どうしようとしていたのか。藩政時代からの歴史を紐解き、幕末を知ることで私が得たのはこの町への誇りだった。ならば今の時代に置き換えたら自分はどうすべきなのか。デジタルを駆使することがまちづくりの最先端なのか?私は否定こそしないがその前に自ら努力すべき事があると今もそう考えている。

愛媛県大洲市のまちづくりが本格的にスタートしたのは1998年9月のこと。官民合同で発足した「大洲市中心市街地活性化検討特別委員会」での動きがその始まりだった。どういうわけかその中に私がいた。4年間の準備を経て2002年に大洲まちの駅あさもやの施設開業とまちづくり会社の創立が実現し「観光集客」を軸としたまちづくりは始まった。

まず歴史を知る。この町の自然を知る。人々の営みを理解する。地域はこの三要素が形成基盤となり時を刻んできている。このことを上手く「画」にして表現できないかと考えた。それがこの町の「名場面を創りたい」ということ繋がったのだ。

古き良き時代から肱川の恵みで生かされて来た。時に大暴れして我々を困らすことも多々あれどなくてはならない河なのだ。鵜飼いは夜のものという認識だったが、昼間は空いている屋形船が2004年の「えひめ町並み博」の頃には60隻以上が登録係留されていた。これを活用して大洲を代表するメニューに仕上げると言うことが、先の2004年からのイベント開催をきっかけに動き始めたのだ。

ひじかわ遊覧(現「お舟めぐり」)

だが、地域の仕組みを変えていくと言うことほど難しいことはない。分厚い壁に阻まれた。それまでできあがっていた観光を舞台としたお金の流れを変えてしまわなければ成し得ないからだ。観光協会の存在と屋形船の船頭諸氏、それに鵜飼いの弁当などを準備する料飲店の皆さん等の関係者に理解していただくことに徹したが、ことが動き始めたのは10年後の2011年夏のことだった。その間、撮影してはインターネットで発信し、東京へ出向いて大手旅行会社に写真で売り込み、逆に何が不足しているのかを指導していただいたりした。そこで見いだしたのが「肱川」+「大洲城」+「臥龍山荘」+「屋形船」+「列車」+「霧」という画を撮って発信することだった。

2014年7月上旬、初代「伊予灘ものがたり」が試走の時を迎えた。事前に情報をいただいたいた私は、普段から撮影していた大洲城と鉄橋と伊予灘ものがたりのセット写真を四季ごとに撮影して発信していく取組を始めた。当時撮影していたのは私1人で誰もいなかった。今や全国版の撮影ポイントになり地域情報の発信に大きな貢献をするに至っている。

鉄橋を牛歩走行する2代目伊予灘ものがたり

まちづくりの舞台裏。思いはこの町が元気になってくれて、子どもたちにとって自慢のふるさとであり続けて欲しい。それだけだ。そのために創りたかった名場面はこの町を代表するイメージとなっている。「鉄橋を渡る気動車の音が聞こえる城下町大洲の風景」は、今や大洲城での旗振りを始め様々なコンテンツを生み出し、多くのファンが訪れる。

かつての時代のこの町を知り、理解する。画にして語り伝える。このことは、DXが叫ばれる昨今、この町の今を次代へと繋ぎ届ける重要なカギを握っている。コントロールするのは我々人間だから。

寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員

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