「ビッグバンド」愛したサックス奏者高橋達也 若い演奏家へ多大な影響「温かい音色」が目標

NABLの第40回定期演奏会に出演した「ウエストウインズジャズオーケストラ」(西宮市)。長らく高橋達也さんの教えを受けてきた=6月18日、神戸ハーバーランドスペースシアター

 兵庫をはじめ各地の社会人が集う「西日本アマチュアビッグバンド連絡会(NABL)」のコンサートには、プロの演奏家が招かれ、参加者は指導を受け、成長してきた。同連絡会理事長の港良一(79)=明石市=の努力のたまもので、その熱意に応えた1人が、日本を代表するビッグバンド「東京ユニオン」を率いたサックス奏者高橋達也(1931~2008年)だ。

 東京ユニオンは、ジャズの新たな可能性に挑戦したアルバム「北欧組曲」などで知られ、1970~80年代に熱烈な人気を集めた。

 港は「東京-」の現役バンドリーダーだった高橋と交渉して89年6月、NABL第9回定期演奏会に招いた。アマチュアプレーヤーにとって高橋は「雲の上の存在」だった。

 コンサート後の懇親会では、混成バンド演奏で盛り上がる中、あるメンバーが高橋に演奏をせがんだ。音に妥協がなく、マナーにも厳しいと定評があった。その日はサックスを持ってきておらず、港がおそるおそる尋ねてみると、高橋はほほえんで快く応じた。「いいよ、誰かサックスを貸してくれれば」。憧れの音色が響き始めた。ヒゲを生やし、強面に見えても、心根は優しかった。

 高橋は同年11月、東京でのライブ中、心筋梗塞で倒れて生死の境をさまよい、復帰が叶わぬまま、この年の暮れ、東京ユニオンは解散する。

 港は心配でたまらず、療養中の高橋にたびたび見舞いの電話を入れた。これを機に信頼関係が深まり、高橋は「お心遣いはうれしかった。これから俺にできることは何でもやる」と約束してくれた。

 高橋は90年にNABLの顧問に就任し、丁寧に指導する公開クリニックを担った。ほぼ毎年、コンサートで全曲を聴き、的確に講評した。やむを得ず欠席した93年は「今年もすばらしいソロイストの出現とダイナミックな演奏がありそうな予感がしています」と温かなメッセージを寄せた。

 港は「お昼ご飯を抜いてまでリハーサルに出て、ソロ演奏もこなしてくれました。いつも『楽しかった!』と言ってくれて。再び大病を患っても、その姿勢は変わらなかった。ビッグバンドを愛していた証しでしょう」と感謝する。

 高橋の指導は亡くなる前年の2007年まで続き、若い演奏家たちに影響を与えた。フュージョンバンド「T-SQUARE」元メンバーのサックス奏者、宮崎隆睦(たかひろ)(54)=神戸市須磨区出身=もその1人。追悼文集「思い出の高橋達也 輝きの音楽歴」(港ら有志の編集委員会が10年に刊行)に、忘れられない高橋との思い出をつづった。

 NABLのコンサート後の2次会。「少ない音でも演奏できるんだ、という手本をお見せします」と高橋は吹き始めた。甲南高校生だった宮崎にとって「今までに聴いたことがないくらいふくよかで温かい音」だった。宮崎は「それ以来、私は『温かい音』というのを目標にしています。その道のりはとても遠いです」。

 宮崎は、港らが創設したメイトジャズオーケストラ(明石市)に一時所属。NABLでは高橋の指導を受け、ジャズの作曲などを学ぶため、米国の名門、バークリー音楽大学に留学する際には推薦状を書いてもらった。

 「高橋さんから学んだ『音で教える』ということ。それができるよう、自身を正していきたい」。後進を教える立場となった宮崎は誓っている。 =敬称略=(小林伸哉) 【西日本アマチュアビッグバンド連絡会】ジャズの社会人ビッグバンドが技術の向上と親睦を図るため、1981年、関西アマチュアビッグバンド連絡会(84年に改称)として結成し、ほぼ毎年演奏会を開催。これまでに加盟した40バンド、学生やプロを含むゲスト23バンドが出演した。2015年、神戸市文化活動功労賞。

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