死んだ子どもの値段はヤギと同じだった イラクでの「デタラメな戦争」で傷ついた元米兵が見つけた再生の道

今もPTSDに苦しむ元陸軍兵マイケル・モンティエル=3月7日、米アリゾナ州東部スペリア(撮影・鍋島明子、共同)

 あのデタラメな戦争から20年が過ぎた。2003年3月、米国はイラクのフセイン政権(当時)が核兵器などの大量破壊兵器を製造、保有していると言いがかりをつけてイラクに攻め込んだ。首都バグダッドが陥落し政権が崩壊したのは開戦から3週間足らず。しかし大量破壊兵器は存在せず、米国は泥沼の戦闘に引きずり込まれた揚げ句、2011年に撤退した。
 その米国がイラク戦争を忘れようとしている。ウクライナに侵攻したロシアによる〝今の戦争〟と中国と台湾を念頭にした〝次の戦争〟で頭がいっぱいなのだ。
 しかし当時バグダッドで市民がさらされる理不尽な現実を取材した記者の1人として、イラク戦争が米国人の記憶から抜けていく現実に納得がいかなかった。開戦20年を機に、同じ思いを抱える元米兵の話を聞いた。(敬称略、共同通信=半沢隆実)
 ▽心の「家」を探している米兵
 イラクに従軍し心が壊れた米兵は、その思いを音楽に込めていた。
 夕映えに染まる米西部アリゾナ州メサ、小さなライブハウスの薄暗いステージで48歳のジェイソン・ムーンは、地元の音楽家らと共演しフォークギターを奏で、歌った。「家路を今も探しているんだ」
 ムーンはイラクでの従軍とその後の人生を、メロディに乗せて振り返った。「僕がしたことや見たこと、後悔していること。そして忘れられないこと。あんなことを経て、同じ人間でいられるだろうか」
 「家」は失った自分の「心」を象徴している。イラク派遣から20年近くが過ぎたが、戦場の記憶はムーンをさいなみ続けてきた。

イラク派遣から20年近く、戦場を離れた後もジェイソン・ムーンは闘い続けてきた。心の病気や社会の不正義に立ち向かう力をくれたのは音楽だった=3月6日、米西部アリゾナ州メサの自宅(撮影・鍋島明子、共同)

 ムーンは開戦前、米中西部ウィスコンシンの州兵で、シンガー・ソングライターとしても活動していた。米国が侵攻を始めて約2カ月後の2003年5月、離婚した元妻との間に生まれその後育てていた3歳の息子を残し、イラクに派遣された。
 イラクの現実は想像を超えていた。真夏になると南部ナシリアの気温は50度近くに上り、掘っ立て小屋のような兵舎ではシャワーすら何週間も使えない時期があった。祖国を蹂躙されたと感じた元イラク政府関係者らは反米武装勢力を組織。彼らの銃撃やロケット弾攻撃は昼夜を問わず、駐留基地内の兵士らを狙った。

 米国による長年の対中東政策に恨みを募らせていたイスラム教過激派によるテロも頻発していた。ムーンは自身の命の危険に怯える日々を送る。さらに彼の心を苛んだのは、戦場の冷酷さだった。ムーンの部隊は「攻撃回避のため、パトロール中の路上にイラク人がいても、軍車両を止めるな」と命じられた。違和感を覚えたムーンが上官に「子どもがいたらどうするのか」と質問すると、答えは「止まるな」の一言だった。ムーンの耳にはひき殺せという命令に聞こえた。
 部隊の同僚の中には、イラク人の命を軽んじる者もおり、ムーンはそうした兵士について「茶色い肌の子どもを殺すことに抵抗を感じないやつもいた」と振り返る。

2003年8月、イラク中部のファルージャ近くで拳銃を所持していたイラク人男性を逮捕する米兵(ロイター=共同)

 ▽子どもとヤギの値段が同じ
 派兵から約半年、所属部隊の車列が、ヤギと散歩中だった男児と接触し、死亡させた。普段は冷静な小隊長が震えながら「子どもをはねた」と告白した。ところが軍はこの事故を公式記録には載せず、男児の家族に賠償金を支払うことを決めた。「部隊員が家族に銃を突きつけ、賠償金受け取りの署名を強要した」。金額は200ドル(約2万7千円)。死んだヤギと同額だった。
 憤ったムーンが「メディアに暴露する」と公言すると、一部の部隊員から嫌がらせが始まった。上官はムーンを意図的に危険地帯の警戒歩哨に立たせた。「武装勢力の標的だった」とムーンは疑っている。また生活費稼ぎに米兵に水を売ろうと接近してくるイラク人の子どもを、テロリストではないかと疑い、ライフルでたたきのめす兵士も目撃した。そぶりからは子どもたちに悪意がないとみられたが、自爆テロを試みる反米勢力と瞬時に見分けるのは難しい現実もあった。
 戦場の矛盾と過酷さがムーンの心を深く蝕んでいった。そして2004年8月に本国へ帰還したころには「僕は壊れていた」とムーンはインタビューで苦しそうに語った。

2003年4月、銃を手にバグダッド市内で警備にあたる米兵(共同)

 ▽家族にとって自分は「脅威だ」
 帰国後のムーンは基地から酒屋に直行し、強い酒をあおる日々を送った。アルコール中毒となり、坂道を転がり落ちるように、症状は悪化していく。不眠や不安など心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症した。除隊した後も仕事は見つからず、作曲も手につかなかった。
 そこには軍の文化がもたらした独特の劣等感もあった。激しい戦闘を経験しても他の帰還兵は特に問題なく過ごしている。「強い兵士になれなかった」という後悔もムーンは引きずる。自分の強さを証明するために、ムーンは地元のバーでけんか相手を探す夜もあった。2008年の春、いつものように泥酔した翌朝、ムーンが目を覚ますと自宅の家具は壊れビール瓶が散乱、再婚した妻サラはおびえきっていた。
 ムーンは知ってしまった。「自分は家族にとって脅威なのだ」。軍での訓練は彼にこう教えていた。「脅威は排除する」と。ムーンは「家族を守るため」に、自らの排除を決め、大量の処方薬を飲んだ。その結果3日間の昏睡状態に陥った。ところが生死の境を彷徨った後に目覚めると不思議なことに「何かが変わった」と感じた。
 その頃、退役軍人のPTSD問題を記録映画化していたフランス人監督に出会う。監督はムーンを映画の一部におさめると同時に、音楽活動への復帰を勧めた。ムーンは久しぶりに曲を作る。その時に「音楽が持つ癒やしの力に気付いた」。音楽の道が再び開けた。ムーンは2009年、アルバム「家路を探して」を発表し、戦地に赴く父として息子に向けた心情やPTSDの孤独感を歌った。
 演奏活動も再開したある日、退役軍人の母親から言われた。
 「どうやって息子の頭の中に入り込んだの?」
 彼女の息子はPTSDで3回自殺を図っていた。その瞬間、ムーンには理解できた。「苦しんでいるのは自分だけじゃない。自分は弱いんじゃない」。また海軍で性的暴行に遭った女性からは「あなたのように曲が書けたら、自分も癒やされる」と告げられる。ムーンは友人らの協力を得て、非営利団体「WARRIOR SONGS(兵士の歌)」を立ち上げた。

地元ミュージシャンと共に自身の代表曲「家路を探して」を演奏するジェイソン・ムーン(奥左)。兵士時代の心情を歌うムーンのギターの響きは穏やかで悲しみを包み込む=3月6日、米西部アリゾナ州メサのライブハウス(撮影・鍋島明子、共同)

 ▽曲で共有する兵士たちの体験
 団体はムーンの自作曲のほか、ベトナム戦争や女性問題などをテーマに、アルバム3枚を発表してきた。兵士個人の体験やその後抱え続けている思いを、プロが曲にするユニークな活動となった。
 ムーンが目下取り組んでいるのが人種差別問題だ。ムーンは自宅から近いカフェに移動し、元空軍兵で弁護士のケイト・スミスと曲の打ち合わせに入った。黒人のスミスは、1980年代に受けた人種差別をトラウマとして抱え続けている。

ムーン(左)と打ち合わせをする元空軍兵で弁護士のケイト・スミス=3月7日(撮影・鍋島明子、共同)

 彼女は当時、西海岸カリフォルニア州で空軍を退役したばかりだった。新たに入居したアパートで白人の住民から車を盗んだと疑われた。「車が怪しいと思ったら自分に聞けばいいのに、その白人の男はいきなり窃盗の疑いで通報したの。私が黒人だったから」
 ムーンは30分ほどかけてスミスの体験を聞き取り、作詞家と作曲家を提案した。地元では有名なミュージシャンだった。すると「誇り高き退役軍人」のバンダナを額に巻いたスミスは「その人たちなら、とても嬉しいわ」と満面の笑みを浮かべてうなずいた。軍内部や社会の差別は根強い。それが米国の現実でもある。スミスは「私たちは今も、基本的な権利のために戦っている」と話した。

ムーンとスミスが打ち合わせをしたカフェ。退役軍人が経営している=3月7日(撮影・鍋島明子、共同)

 ▽繰り返される暴力衝動
 ムーンは現在43歳のサラとの出会いを機にアリゾナへ移住した。健忘症など後遺症は続き、定職には就けていない。生活は障がい者支援金頼りで「花火の音で戦場に引き戻されることもある」という。2022年の初めには、再び発作的に部屋を破壊してしまった。
 スミスとの打ち合わせを見守っていたサラは「つらい時もある」とほほ笑んで続けた。「でも分かっている。ジェイソンは音楽で自分と仲間たちを救っている。最高の人間なの」。
 サラの言わんとしたことは取材を通じて理解できた。ムーンは弱さではなく、その人間性故に傷ついていたのだ。サラはそんな夫とその歌を、支え続けていくつもりだと、少しばかり切なそうな笑みを浮かべていた。

スミスとムーンが打ち合わせをしたカフェ。退役軍人が経営している=3月7日(撮影・鍋島明子、共同)

 ▽国も自分も過ち犯した
 ムーンは自分と同じ苦しみを抱える仲間を紹介してくれた。
 ムーンの自宅から東へ約1時間、アリゾナ州東部、暗い山肌に囲まれた銅鉱山の町スペリアにある簡素な自宅で元陸軍兵マイケル・モンティエル(40)が自身のPTSDを打ち明けた。「本当に長い間苦しんだんだ」
 米大陸先住民ヤキ族の血を引くモンティエル。「自分を試し、伝統にのっとった戦士になりたい」と入隊を決意し、2004年から05年の約13カ月間、歩兵としてイラク北部ティクリート郊外に派遣された。

 現地では反米勢力のたび重なる攻撃に見舞われた。所属部隊は週に1回は手製の即席爆破装置(IED)の標的になった。軍内部では「IED小隊」ともやゆされた。
 待ち伏せ攻撃や戦闘で仲間を失う日々だった。詳細は言葉を濁しながらも自分の「過ち」をぽつりぽつりと語った。米政権が掲げた戦争の大義についても「最初は大量破壊兵器があるので(侵攻は)当然だと思った。でもその後、イラクの石油とガス、戦後復興費用といった利益のためだったと分かった」。「企業を潤すための戦争だった」との思いは「今も僕を傷つけている」と話す。
 約400日の過酷な任務を終えて自宅に戻っても「戦場で使っていた防弾チョッキを心の中に装着し、他人と自分を隔てていた」。人と会うのを避け、花火などの破裂音でIED攻撃の記憶がよみがえり、動悸(どうき)が続く。「今でもそうした状態になると、ここは戦場ではなく自分は安全なんだと理解するのに数日かかることがある」
 2005年の退役後は「最もつらい10年間を過ごした」というモンティエル。今はシングルファーザーとして小学生の娘3人を育てる。「誰かを助けるという使命が自分を支えている」と信じながら、同じ境遇の退役軍人を支援する社会活動にも取り組んでいる。

2003年4月、バグダッド市内の病院前で警備する米兵(共同)

 ▽日系人差別にも取り組む
 アリゾナでの取材を終えて日本に戻ると、ムーンから連絡があった。「人種問題の一環として、在米日系人を取材したい」
 調べてみると格好の人物が見つかった。米東部ニュージャージーに住む男性で、1941年の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃をきっかけに始まった在米日系人の強制収容で収容所暮らしを経験していた。男性はその後ベトナム戦争に参加した。
 ムーンは彼の経験を音楽にすることを決めた。日系人差別に苦しめられながらもベトナム従軍で国への奉仕も果たしたが、ムーンと同様のPTSDに苦しんだ。この男性の人生を音楽として残すため、「WARRIOR SONGS」は、日系人や日本人のソングライター募集を始めた。
 イラクでの開戦以来、米兵の死者は約4500人、米シンクタンクの集計では、テロや米軍攻撃でイラク市民約11万5000人が死亡したとされる。
 米退役軍人省によると、中枢同時テロを受けた米国のアフガニスタン戦争とイラク戦争のうち2001年10月から08年6月に従軍した兵士6万人を対象とした調査で、回答した約2万人の13・5%にPTSDの症状が確認された。うつや薬物中毒を訴える元兵士も多い。米ブラウン大の調査では、これまでに戦闘による死者を大幅に上回る3万人以上が自殺した。
 兵士として人生を変えられてしまったムーンの苦しみは、途方もなく重い。それでも一つ一つの戦争が生み出す悲劇の砂漠に埋もれた一粒の砂に過ぎない。

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