“空手バカ一代”が折った『牛の角』一式1000万円… 大山倍達”伝説”を超えた価値とは

「極真会館」創始者・大山総裁が修行時代に折った牛の角(榎園哲哉撮影)

あまたの強豪選手を輩出し、空手界・格闘技界に大きな影響を与える国内屈指の空手道団体「極真会館」。

その創始者、故大山倍達(おおやま・ますたつ)総裁(1923~94年)が若き修行時代に牛と格闘した末に折った角など、伝説の秘蔵の品々がこのほど、東京・巣鴨の格闘技ショップ「闘道館」で展示販売が開始された。

大山総裁が亡くなると組織は分裂

床から1メートルほど高く作られた試合場。そのすぐ下にいると、選手同士の気合、肉体と肉体がぶつかり合う音が聞こえてくる。鍛えた己が拳足(けんそく)のみを頼りにしのぎを削り合う。まさにそれがフルコンタクト(直接打撃性)空手の魅力かもしれない。横浜市で4月8日~9日に行われた「第5回極真連合杯 世界空手道選手権大会」では、そうした試合が数多く見られた。

しかし、大山総裁が創始した“実戦空手”は当初、攻撃を相手の体に当てない寸止めルールを採用する主流の伝統派空手(全日本空手道連盟)からは邪見視されていた。いわく、直接当て合うのはあまりに危険であり、それは「ケンカ空手」であると。それでも多くの観衆は、鍛え上げた肉体と精神をぶつけ合うその魅力にひかれ、今ではフルコンタクト空手は伝統派空手と並ぶ、空手界の潮流のひとつを担っている。

フルコンタクト空手界をけん引してきた極真会館。しかし1994年、大山総裁が亡くなると組織が割れた。

後を継いだ松井章奎館長に対し、極真会館を離れた支部長たちが「商標」(極真会館の名称や極真マーク、ロゴ等)の使用を妨害せぬよう東京地裁と大阪地裁へ提訴も行い、ともに原告側が勝訴した。

組織・団体は、今では大きく、極真会館(松井章奎館長)、新極真会(緑健児代表)、全日本極真連合会(田畑繫理事長)、極真館(盧山初雄会長)、世界全極真(長谷川一幸総師)の五つに分かれ、それぞれ極真空手を継承している。

4年に1度開催することから“空手オリンピック”とも称されていた全世界大会も継がれている。冒頭に挙げた4月の全日本極真連合会主催の大会のほかに、10月には新極真会主催、11月には極真会館主催の全世界大会の開催が予定されている。

武者修行を続けた若き大山倍達

大山総裁とはどのような人物だったのか。

人一倍強さへの憧れを持っていた彼は戦後、「昭和の宮本武蔵」を目指し、空手の稽古に明け暮れた。千葉・清澄山で山ごもりをし、渡米して巨漢プロレスラーとも戦った。さらには、千葉県館山市の八幡海岸で牛(雄、体重約450キロ)とも戦い、ねじ伏せてその角を折って見せた。

その時に折った角、さらには当時はいていたトランクスや着けていたレガース(すね当て)など、若き修行時代の証しとも言える貴重な品々。都内の倉庫で眠っていたそれら遺品が遺族から譲られ、大山総裁の生誕100年、没後30年の今年、展示公開され、誕生日の6月4日に合わせて「角」の販売が始められた。

厳しい修行を物語る品々のうち、牛と格闘していた際にはいていたトランクスを直接譲り受け、一時保有していた長谷場譲師範(現極真会館長谷場道場師範、七段)は、大山総裁の内弟子として極真会館(東京・池袋)に住み込み、身近で接し、その教えを受けていた当時の様子をこう振り返る。

「劇画(総裁をモデルにした「空手バカ一代」)に描かれているような聖人君子ではなく、人間臭くて人懐こい優しい方。カッとなって怒ることは多くても、手を挙げることはなかった」。

同師範は体が大きくなく、運動能力、心肺機能も人より劣っていたが、「こういう小さいのは意外と根性があるんだよ」という一声で内弟子としての入寮が決まり、「今の私があるのは大山倍達館長のおかげです」と語る。

自らも実戦空手「大道塾」有段者で、中学生の頃から大山総裁の薫陶を受けてきた泉高志闘道館館長は、「ねじり折られた断面に大山総裁の闘魂を感じ、鳥肌が立った」と牛の角を初めて見た時の印象を語る。

「空手という枠を超え、格闘家として異次元の強さを世に問うた命懸けの挑戦。この角は、その究極の試し割りによる唯一の戦利品。地上最強とは何か? を身をもって表現してみせた若き日の大山倍達の情熱が今もあふれ出ている」と述べ、「この角に込められた熱量、歴史的意味を、実物を見て感じてほしい。大切にしていただける次のもらい手がいらっしゃらなければ、角はお店が続く限り飾っていてもいい」とも語っている。ちなみに販売価格は角と実使用闘衣等を含む一式で1000万円である。

馬鹿になる度胸が大事だった

筆者も一度だけ、生前の大山総裁に接したことがある。「第5回全世界空手道選手権大会」(1991年)会場の東京体育館。試合場のスモークがたかれた中で行った生前最後の演武「円転掌」は、天上界で行っているようでもあり、五感でそれを受け取った。

「目的の為に馬鹿になる度胸が私にとって大事であった」。

遺品のうちの一点で、総裁自らが当時作成したスクラップブック。その牛と格闘する写真のメモ書きにはこう書かれていた。牛と素手で闘う、という常識的にかけ離れた挑戦は、当時理解されづらかった。それからおよそ70年。フェイクや仮想があふれ真の生き方が模索される現代、ばかになって生きよ! と展示された角が静かにそう語りかけていた。

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