「和牛の聖地」よ、永遠に 生家は但馬牛のルーツと深いゆかり 兵庫の景観遺産・熱田集落

宮脇智恵子さんの生家。宮脇さんの高祖父(4代前)に当たる田野徳三郎氏が飼育した雌牛「ぬい」は「熱田」「第二熱田」などの名種雄牛を生んだ=香美町小代区新屋

 「和牛の聖地」と呼ばれる兵庫県香美町小代区の廃村・熱田集落で、母屋が形をとどめる民家は2軒しか残っていない。その一つ、宮脇智恵子さん(79)=同区大谷=の生家は、但馬牛の本家本元とされる血統「あつた蔓」ゆかりの地とされる。宮脇さんに子ども時代の思い出を聞いた。

■「ポツンと一軒家」のような暮らし

 私の家は人が見にくいところの谷底にありましてね。谷底だもんで虫がようけ出て、ジメジメしたような感じ。先祖は源平合戦から逃れて、人に見られんような谷底に住んだと聞いております。だいぶ昔の話ですね。本当は(家の歴史を)書いたものもありましたけど、家の草屋根を直したときに全部捨ててしまったみたいですね。

 家は築100年はたってると思います。だけど、つぶれりゃへんだがね。というのは栗の木で建っとる。いろりから火をたくから木が真っ黒けになってましたけど、それで丈夫なんかもしれませんね。

 私は6人姉妹の一番上で、両親とおばあさんとで住んでいました。牛を2頭飼ってましたし、鶏も縁の下で飼って、卵を取ったりしてました。食事で肉といったら鶏をつぶして食べるくらい。本当に山のもんばかり食べとったから。

 おいしかったのは栗とね、お父さんがリンゴとかカランキョウ(スモモ)とか植えて食べとった。ナシもつくっておりました。袋をかぶせてね。ポーポ(北米原産の果物)も好きでした。グミも大きなんを家の近くの畑に植えてました。妹らとよく話すんです、「お父さんがつくってくれたあれ、おいしかったなあ」って。

 サンショウもお母さんが植えて実がなると採りに行きよりましたね。ヤナギもつくっておりました。豊岡の柳行李ってあるがね。そんなんに出荷して。皮むくとべとべとになるし、大変でしたね。「カンゴ」っていう、紙の原料になるもんも育てておりました。テレビ番組の「ポツンと一軒家」。あんな感じでしたね。

 お父さんは12月の初めごろから酒蔵とか高野豆腐を造りに出稼ぎに行っておりました。うちは谷底なもんで、2階の窓から出るほど雪がようけたまってね。冬は「深靴」っていう、わらで編んだ長靴みたいなんを履いて、スキーで滑るのも、竹で作ったスキーでした。

■分校の先生とは思い出いっぱい

 小学校(旧小南小学校熱田分校)は、私らの時は教室が一つだけで、1年生から6年生まで一緒。先生は一人だけでした。

 男の先生は新屋(隣の集落)から歩いて通っていましたが、その後で赴任した女の先生は学校に泊まり込んでいました。旦那さんもたまに泊まりに来て、旦那さんが来んときは、一人で学校におるのは好かんだかで、私らに「泊まりに来い」って言ってね。女の子に「今日は誰泊まれ、彼泊まれ」って。3人とか4人で先生と一緒に寝たりしてました。

 それで、学校には風呂がないもんだから「今日はうち、明日はあの家」って、子どもがおる家まで風呂に入りに行くんですが。それで、一緒に泊まる私らに「付いてこい」って言うんだがね。「そんなとこに行きたない」って言うんだけど「汚い」って怒られてね。懐中電灯もないからちょうちんで行きよりました。先生の先を走って行って、畑の高い所から石をポロポロ落としてびっくりさせたら「あんたらがしたんだ、分かってる!」って(笑)。

 秋岡という集落の人で、吉田先生といいました。月1回、秋岡の本校に出るときは前の日、先生の家に泊まらせてもらってね。きっちりした先生で、けんかもようしましたが、食事の作り方や行儀作法を教えてもらいました。吉田先生との思い出はいっぱいあります。だから先生が亡くなったときは寂しかったですね。(聞き手・長谷部崇)

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 「但馬牛のいま」(榎勇さん著)によると、宮脇さんの高祖父(4代前)に当たる田野徳三郎氏は、1909(明治42)年生まれの雌牛「ぬい」を購入し、熱田で飼育。ぬいが生んだ種雄牛「熱田」「第二熱田」は大いに評判となり、その血統は後の名種雄牛「田尻」(39~54年)に継がれた。

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■県の「景観遺産」登録第1号

 地域特有の歴史的な背景を持つ土地や建物を対象とする県の「景観遺産」で、熱田集落は「和牛の聖地」として今年3月、北播磨地域の「織物産業を象徴するノコギリ屋根」とともに登録第1号となった。

 熱田集落で登録されたのは、①旧小南小学校熱田分校②民家跡(吉田真佐子さんの生家と宮脇智恵子さんの生家)③熱田神社④棚田跡⑤観音堂跡⑥住民が集団移住した越冬住宅と牛舎跡-の六つ。ただ、人の手が入らない建物は老朽化が進んでおり、香美町小代地域局は「今後、建物を残していくためのグループを立ち上げ、景観遺産の登録エリアの保全に取り組みたい」としている。

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■熱田集落の始まり

 美方町史などによると、12世紀末、尾張(愛知県)・熱田の大宮司、藤原秀範の次男・次郎範秀が、信濃(長野県)への逃亡を経て「田野入道」と名を変え、さらに家臣の小子藤内と小代谷へ逃れてきたのが熱田集落や熱田神社の始まりと伝わる。

 明治初期、神社の統合が進められ、熱田神社も隣の新屋地区の神社に合祀することになったが、ご神体を背負った男性が熱田を出て峠の頂上に差しかかると、ご神体が重くなり、体が動かなくなった。一行は熱田に引き返し、合祀は取りやめになったという。

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■小南小学校熱田分校

 美方町史によると、熱田分校は1941(昭和16)年に開校。当時の校舎は平屋の簡素なもので、教室が一つ、職員室兼特別教室が一つという程度だった。宮脇智恵子さんが通った分校もこの時代に当たる。

 59年、2教室と屋内体操場、職員室、宿直室、炊事場、風呂場を備える新校舎が完成。だが、主婦1人が亡くなる雪崩事故が発生し、熱田の住民は69年に集団移住。分校は新校舎完成後10年で廃校となった。

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