手繰る1本の糸、2千年続く日本の養蚕 営みをつなぐ「押しかけ弟子」 兵庫・丹波

蚕が繭を作る時の足場にする蔟(まぶし)いっぱいに〝実った〟繭。桑の生育にも恵まれ、病気も少なく、予想より多い繭が取れた=6月14日、丹波市春日町中山

 湯の上で繭が踊る。その上をなでるように動く右手に細い光がきらめく。

 「(繭から糸を引く)座繰(ざぐ)りをすると質と触感、繭の出来が一番よくわかるんです」と兵庫県丹波市の絹織物作家原田雅代さん(54)が糸をたぐりながら笑顔がこぼれる。

 6月下旬、約1万8千頭の蚕から約40キロ弱の繭がとれた。5月半ばに2ミリ弱でふ化した蚕は4回の脱皮を経て、繭作り直前には7センチまで成長。その旺盛な食欲で、餌になる桑畑は1反(約10アール)弱が丸裸になってしまった。

 養蚕を始めて丸10年。きっかけは素材の絹を得るためだった。愛媛県で絹織物の技術を学ぶ中で、国内養蚕の壊滅的状況を知った。価格低迷と高齢化で農家数は激減。幼虫の仕入れ元となる共同飼育所は関東に数軒残るのみで、飼育所も「時間の問題」に見えた。

 そんな中、兵庫県内最後の養蚕農家だった柿原啓志さん(87)を知り、「押しかけ弟子」となった。かつて養蚕指導員も務め、半世紀以上蚕を育ててきた柿原さんは、卵からかえし、人工飼料を使わずに桑の葉だけで育てる伝統的なスタイル。糸質も良好な上、業者に頼る必要が少なく、自給に近い形が理想的だった。

 一般的な飼育法に比べ、10日ほど世話の期間が長くなる。蚕に桑の葉を与える「給桑」は、ふ化後から毎日3~4回。温湿度管理に気を使い、序盤はストーブで部屋を暖めた。「成育条件は毎回変わる。生き物だからこその難しさはいつも感じています」と原田さんは実感を込める。

 若手養蚕家らとの意見交換を通じ、業界の厳しさは日々痛感する。新規製造がないため、必要な器具も希少品だ。それでも「手間をかけた分だけ返ってくるものがある。自分で育てた糸だからこそ最後の一本まで大切に使いたい」と原田さん。手繰る1本の糸が、約2千年続く日本の養蚕の営みをつなぐ。(中西幸大)

■国内の養蚕業 風前のともしび

 弥生時代以来、約2千年の伝統を誇る国内の養蚕業だが、生産量は長期低落の傾向にある。飼育した蚕に繭を作らせて出荷する養蚕農家は、全国で群馬など北関東を中心とする163戸のみ(2022年)で、まさに風前のともしびだ。

 一般財団法人大日本蚕糸会(東京)によると、国内流通する絹製品のうち国産品は1%未満。生産のピークだった昭和の初期には全国で200万戸以上の養蚕農家があったが、以降は数を減らし、近年は5年で半減するペースが続く。

 同会は、急減の背景に生産者の高齢化をあげる。大食漢の蚕には桑やりを絶やすことができず、数万頭が一気に繭を作る繁忙期には、瞬間的に人手も必要となる典型的な労働集約型産業でもある。また、生糸の質と価格の両面で、海外産との競争が厳しいのが現状だという。

 兵庫県内でも繭生産量のピークは昭和初期。養蚕農家も1955年ごろに1万5千戸ほどあったが、原田さんのような自給を除外し、現在はゼロとなっている

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