大胆推理!徳川家康の死因を暴け がんドクターとひもとく天下人の“最期”

健康オタクのSHOGUN 家康公

戦乱が終結し、数百年に渡る平和な社会が続いたことから、海外の歴史家から秩序ある国家運営が続いたローマ帝国時代(Pax Romana)にならい、「Pax Tokugawana(パクス・トクガワーナ)」と称されている江戸時代。将軍をトップとする統治システムは「Shogunate(幕府)」という英単語になるほど歴史的な価値を持っています。その礎を築いた徳川家康公は、健康オタクとしても知られています。ぜいたくをせず麦飯とミソを好んで食べたり、自ら薬草などを調合して作った薬を愛用したりする姿は、数々の書物に詳細に記録されています。

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家康の終の棲家となった駿府城

通説「食あたり」は間違い

江戸幕府の公式史書『徳川実紀』には「1616年1月21日、藤枝市で鷹狩をして、夕飯に京都で流行っていた鯛(タイ)の天ぷらを食べたところ、翌日の午前2時ごろ腹痛を訴え、医者の診察により腹部のしこりが見つかった」という記述があります。後に「家康公は天ぷらを食べ過ぎて食あたりで死んだ」という通説の元になる記録ですが、静岡市の「県立大学前クリニック」の医院長で長年がん治療に携わってきた松田巌医師は「食あたりではなく、原因は家康が健康オタクだったことと関係が深い」と推論します。松田医師と『徳川実紀』をひもとき、家康公の真の死因に迫りました。

「しこり」から胃がんを見抜く

「食あたりとは急性胃腸炎、もしくは食中毒を指し、腹痛や嘔吐(おうと)下痢を起こす急性疾患です。夕飯に天ぷらを食べて就寝後に発症するという時間経過は妥当です」と話す松田先生は食あたりとは決定的に違うポイント指摘します。「しこりは食あたりではできません。お腹のあたりに外から触って分かるほどのしこりがあったということは別の病気の可能性を示唆しています。場所からすると胃がん、しかもかなり進行した胃がんだったと想像できます」。家康公はかやの油で揚げた鯛にニラをかけて食べたとされていますが、天ぷらによる消化不良が、潜在していたがんの症状を顕在化させた、というのが正しいようです。

病に侵されてゆく家康公

「1月下旬になると家康公の食欲は衰え、喀痰(たん)が増え、脈に結滞が出る」(徳川実紀)。この記述を松田先生はこう分析します。「胃がんでたんが増えることはありませんが、吐き気は強くなります。おそらく吐き気により生唾が増えたのでしょう。結滞とは不整脈のことです。胃がんが進行すると貧血になるので、不整脈、特に頻(ひん)脈が発生したと考えられます」

しゃっくりが明かす病巣の場所

同書には3月に入り、悪化する家康公の様子がこう記されています。「口にするのは茶漬けや粥、葛を団子にした汁物だけになった。体重が減り、顔色が悪くなる。吐血し、便は黒くなる。しゃっくりが頻発した」。無治療の胃がんでは日を追うに連れ症状は悪化していきます。「貧血が進行し、場合によっては黄疸も伴うため、顔色が悪くなります。胃の腫瘍が大きくなるので食べ物が胃を通りにくくなり、流動食しか受け付けなくなったのでしょう」

松田先生はしゃっくりが頻発したことでがんの大体の場所が分かるといいます。「しゃっくりは胃が膨張し横隔膜を刺激することで引き起こされます。おそらく家康公の腫瘍は胃の前庭部、幽門のあたりで大きくなり、出口をふさいだのではないでしょうか。この腫瘍から出血が増えたため便の色が黒くなったのです」

高熱を出した数日後に逝去

17日には家康公を最高位である大政大臣に任ずるために朝廷から勅使が駿府城に送られましたが、この大事な場面でも家康公は起き上がることができなかったと記録されています。4月に入ると側近を枕元に集め「自分の遺体は久能山に納め、葬儀は増上寺で行い、一周忌が過ぎたら日光に小堂を建てて勧請するように」と遺言を伝えます。その数日後高熱を出した家康公は白湯しか受け付けなくなり、4月17日の午前10時ごろに息を引き取ります。75歳でした。

死因は「胃がんの進行による全身衰弱と…」

「高熱は進行がん特有の腫瘍熱、または嘔吐に伴う誤嚥(ごえん)性肺炎が原因ではないでしょうか。がんは比較的最期まで意識が保たれる病気なので、腫瘍が神経部分にまで広がっていなければ痛みもそれほどないので家康公は側近たちに自分の望みをはっきり伝えることができたでしょう」。松田先生は家康公の最期をこう説明します。「直接の死因は、胃がんの進行による全身衰弱状態に誤嚥性肺炎を併発と推察するのが妥当です」

当時のがんは長寿病

それでは家康公はどうして胃がんになったのでしょうか。「胃がんの主要な原因は、ピロリ菌、喫煙、塩分の摂りすぎです。胃の中に住むピロリ菌は井戸水の中にも生存していると言われています。ピロリ菌は子どもの時期に感染します。人糞(ぷん)を使った肥料で育てた野菜を摂取したり、ピロリ菌保菌者が子どもに口移しで食べ物を与えると感染します。衛生状態が悪かった昔は今以上に感染リスクが高かったでしょう。冷蔵庫などない時代ですから、塩漬けの食品が多く、なおさら胃がんになりやすい時代だったのでしょう」

しかし胃がんが原因で死亡する日本人は当時少なかったのではないかと松田先生は推察します。「傷ついた細胞が再生する際に何らかの刺激によってDNAの複製ミスが起こるのががん発生のメカニズムです。当然がんはありましたが、実際はがんの発生が多くなる50〜60代になる前に結核などの感染症でなくなる例がほとんどだったと思われます。家康公が推察の通り胃がんだったとすれば、長寿だからこそかかった病気といえるでしょう」

征夷大将軍の“生兵法”

戦国時代を生き抜き、当時の平均寿命をはるかに上回ることができた家康公から私たちはなにか学べるでしょうか。松田医師は「自分で薬を調合するほどだったので健康管理には長けていたようですが、主治医の片山宗哲の診断を退け、腹のしこりをサナダムシ(条虫)と自己判断し、虫下しの薬を服用したと記録が残っています。しかも、片山が服用を控えるようにと進言すると立腹し、彼を信州の諏訪高山に流罪にして自己治療を続けています。当時はがん治療技術はありませんでしたが、主治医に従っていればもう少し生きられていたかも知れません」と説明します。

その上で「自己診断・自己治療をする患者さんは現代でも見受けられますが、適切な治療のタイミングを逃し、症状を悪化させてしまいます。体調が悪くなったら早めに受診し、出された薬は飲み切るなど、医師の指示に従ったほうが良いのは現代でも同じことではないでしょうか」と早期受診、早期治療の大切さを強調しました。

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