【読書亡羊】いつの間にかロシアの宣伝マンになっている! 諜報国家・ロシアの思考回路とは 保坂三四郎著『諜報国家ロシア』(中公新書) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!

監視役にも監視役がつく相互不信

ロシアの世界観のベースにあるのは、徹底した相互不信だ。基本的に相手を信じないことからすべてが始まっており、それは対象者が国外の人間だろうが、国内の人間であろうが関係ない。日本も「世間体」という名の「相互監視の目」がないとは言わないが、ロシアはその比ではない。

保坂三四郎著『諜報国家ロシア―ソ連KGBからプーチンのFSB体制まで』(中公新書)は、ウクライナで近年公開されたKGB文書などから、ソ連時代の情報機関の動きと、それを継承したロシアの現状と、行動原理を描き出している。

ソ連成立時に由来する、ボリシェビキによる革命派への潜入、行政府への浸透などの諜報戦を戦うために設けられた反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)が暗躍し、敵の浸透を防ぎ、密告・工作ネットワークを形成する。社会のあらゆるところに、あらゆる肩書で浸透し、裏切り者は摘発し、同胞・外国人を問わず協力者を獲得し、目的のために働かせるのだ。

その思考は「どこに敵がいるかわからない」「誰が自分たちの体制を崩壊させる陰謀を企てるかわからない」という強烈な猜疑心に彩られている。組織内の裏切りを監視する役職の人間にも、さらに監視役がつく徹底ぶりだ。

それはソ連が崩壊し、ロシアになってからも変わらない。むしろKGB出身のプーチンによって、行政とKGBの一部の機能を継承した連邦保安庁(FSB)、さらにマフィアが一体化した三位一体体制「システマ」として結実したと本書は指摘する。

さらにはその資金力と権力で、メディアはもちろん、さまざまなフロント組織を作り出し、「ロシアにとって都合の良い状況」を作り出すための工作に邁進し、体制の維持を図っているのだ。

安倍対ロ外交政策を歪めたエージェントとは

本書では具体的な工作の実例がいくつも紹介されているが、例えば「貴重な文書をお見せする機会を設けましょう」と海外の学者を口説き、「あなたにだけ、とっておきの情報をお知らせします」と海外の政治家やジャーナリスト、外交官を篭絡する。

クレムリンが毎年開催する「ヴァルタイ討論クラブ」などはまさにその装置の一つで、一見、くだけた雰囲気ゆえに、ロシア政府関係者の発言を「つい本音を漏らした」と受け取ってしまう参加者もいるという。

だがそれは〈ロシアの戦略を補助する「演劇的役割」を担う〉と筆者は指摘する。

それに気づかない参加者が自国に戻って「ロシアという国は、本当はね……」などと話し始めると、見事にロシアにとって都合のいい情報や見解を振りまく「宣伝マン」に成り下がるのだ。

少なくとも国家の息のかかったロシア人と、外国人が関係を結ぶ際に「交流」や「互いの信頼関係」をベースに解釈してしまうと、いいように利用されることになる。

こうして宣伝マンに仕立て上げられる人物は、ソ連時代から「インフルエンス・エージェント」と呼ばれる。〈クレムリンのありがたいメッセージを預かった外国人〉として、〈帰国後にメディアや学会、時には政府に対し「欧米の主流の見方は~だが、ロシアは~と考えている」というオルタナティブのナラティブ(代替的物語)を拡散させる〉のだ。

インフルエンス・エージェントと目される人物の助言が政治に直に影響を及ぼした例は、日本にもある。本書では安倍政権時代にしきりに言われた「ロシアを遠ざければ中露同盟が成立してしまう。ロシアをあちら側に追いやってはいけない」というナラティブの流布が挙げられる。

こうしたナラティブに乗り、安倍政権は融和的な対ロ政策を行ってきた。結果、北方領土がどうなったかはご存じの通りだ。

ロシアが考える「もう一つの現実」

それにしても驚くのは、ロシアを覆う「相互不信」の深さと同時に、人間心理の理解の深さである。

ソ連・ロシアの工作手法であるアクティブメジャーズ(敵対者のイメージを失墜させ、自国の影響力を強化する取り組み)や反射統制(相手が自発的にこちらが望む言動を行うよう、与える情報をコントロールする)はこれまでにも専門書が刊行されている(『アクティブ・メジャーズ: 情報戦争の百年秘史』作品社、『ロシアの情報兵器としての反射統制の理論』五月書房新社など)。

だが本書を読むと改めて、ロシアが「人間の感情の、どこをどう刺激すれば意のままに動かせるのか」を徹底して考え抜き、実行しているか、が読み取れる。

そしてロシアが考える「現実」とは、客観的事実によって構成されるのではなく「人々がどう思っているか」によって構築されている、という解釈に基づく点も見逃せない。

現実がロシアにとって都合の悪いものであるならば、偽情報を流し、人々の認知を捻じ曲げることで、あたかもロシアが望む現実こそが目の前にあるかのように振舞うことで、「そう認識する人」を増やしていく。

現実はひっくり返らなくても、人々の脳内の認知は少しずつ非現実と置き換わっていく。インターネットは、まさにこうした認知の置き換えに有用な武器と化している。

本書はこうした情報戦、認知戦の実態を詳細に解説しており、特に第三章、第四章は、政治やメディアにかかわる人間が読んでおかなければならない指摘にあふれているのだ。

人間の脳を支配するロシアの「罪」

「この内容が、新書で、1000円程度で読めるなんて!」と感激するほど濃密な、ロシアの「世界観」の構築の仕方、諜報国家としての来歴を紹介する本書は、ロシアの手口を知ることで〈ウィルスに対する免疫力を養う〉役割をも果たす。

ネットを通じてロシアの工作が誰に対しても行われるようになった今、免疫力はすべての人々に必要な要素となった。ロシアが手がけるフェイクニュースや偽情報の発信、フェイスブックなどSNSでの偽アカウントなどの手法は2016年の米大統領選以降、明るみに出てはいるが、それでも「ロシア発の情報」にいいように踊らされている人たちは少なくない。

「欧米はそう主張するが、ロシアの主張はそうではない」「ロシアを悪とし、ウクライナや欧米を善とするのはおかしい。アメリカだって散々ろくでもないことをやってきた」……

こうした客観的視点を持つことは本来は重要だが、ことロシアに関するケースでは、重大な落とし穴になる。ロシアはそうした人間心理を狙って情報戦を仕掛けているからだ。

何より、ロシアがメディアやインターネットを通じて世界中にばらまいた「事実よりも(現実がそうであると信じ込ませるための偽の)物語こそが重要である」という毒は、当然、日本にも多大な影響を及ぼしている。そしてその毒が回っているか否かは親露的であるかどうかで測られるのではなく、事実に対する姿勢によって判断される。

ロシアからすれば自国の体制を維持し、有利な状況を作り出すためにやったことだが、「事実とナラティブの境界をあいまいにしたこと」は、現在進行中のウクライナ侵略と同様に、人類史上におけるロシア最大の罪と言っても過言ではない。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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