【高校野球】横浜隼人の正捕手・山野井寛大 父は元横浜高の松坂世代 PL戦で記録に残らぬ大ファインプレー

長男の寛大ら横浜隼人ナインの活躍にスタンドから声援を送る山野井さん=横浜スタジアム

◆横浜隼人8-0横浜翠嵐(7回コールド)

 2009年以来の甲子園を目指し、夏の初戦を迎えた横浜隼人で2年生ながら正捕手を務める山野井寛大の父・成仁さん(42)は、横浜OBで松坂大輔を擁した1998年春夏の甲子園優勝メンバー。「限られた時間。後悔しないように頑張ってほしい」と愛息の晴れ舞台を見守った。

 成仁さんは高校時代、遠投110メートルの強肩でならした外野手だった。3年春までは右翼手のレギュラーだったが、以降、度重なる右手首のけがもあり、最後の夏は県大会での出場はなく、甲子園も「ぎりぎり残してもらえた」という背番号13でベンチ入りを果たした。

 「チームのために徹してくれ」。当時の渡辺元智監督からかけられた言葉を意気に感じた成仁さんは、死闘と呼ばれ語り継がれる準々決勝のPL学園戦で記録には残らない大ファインプレーでチームを救うことになる。

 エース松坂が序盤から配球を読まれていたかのように、PL打線につかまり連打を浴びていきなりの3失点。投球フォームに癖があるのか、捕手のサインが見破られていたのか…。動揺が広がるベンチで成仁さんは違和感の正体を突き止めた。

 「俯瞰(ふかん)して見て、三塁コーチャーの声がおかしかった」。PLの主将・平石洋介(現西武ヘッドコーチ)が松坂ではなく、捕手の小山良男(現中日スカウト)を凝視しているのに気付き、チームメートを通じて当時の名参謀、小倉清一郎部長に伝えた。

 「漫画かと思うくらいできすぎだった」という熱狂の渦中で死力を尽くした夏から25年。父とは違うユニフォームをまとった長男坊の初陣に「初戦の硬さもあったが、勝ててほっとしていると思う」と口元を緩めた成仁さん。もちろん自らが体感した、全てをのみ込むような聖地のスケールを味わってほしい親心もある。だからこそ言う。「一生の宝になる。そこにチャレンジしてほしい」

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