平成19年の年賀状 「『我が師 石原慎太郎』、日米半導体戦争、そして失われた30年」・「三回の欠礼、M&Aとコーポレート・ガバナンス、そして人生と仕事」

牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・私の関心は、日本の失われた30年の原因とその復活の道、未来の姿である。

・日米半導体交渉。1987年4月、中曽根・レーガン会談は決裂した

・日本を子ども、孫の世代に遺すに足る国にするのは、我々団塊の世代の責任。

新年おめでとうございます。

久方振りに賀状を差し上げます。

その間に何があったのか。目の前の仕事を片付けることに追われていると一年が経っています。私の時間は一週間を単位に、それがあたかも一日であるかのように慌しく過ぎ去ってゆくようです。

四月。通りがかりの靖国神社前、桜の花びらが地吹雪のように道路を舐めて走るのを眺めていました。

八月。首都高を走っていると鳴る携帯。電話を返して改めて始まる休みのない夏の時。

夏がいつ来たとも行ったとも知らない、短過ぎる夏の煌めきでした。

一年。仕事に明け、暮れる年。問題は仕事とは何かでしょう。それは自ら定義するものだと私は強く思っているのです。

(1月8日22時からWOWOWで私の小説『MBO』がドラマになります。よろしければご覧ください)

「『我が師 石原慎太郎』、日米半導体戦争、そして失われた30年」

『我が師 石原慎太郎』を書いて、恩師である平川祐弘先生にお贈りしたら、

「牛島信は、このすらすらと綴った私語りで、ついに日本文壇史の中に名を連ねることとなりました」というお言葉をいただいた。

平川先生は、「私はかねがね文学部出身の文学者は幅が狭くてつまらない。法学部や理学部出身者の方が面白い、とひそかに思って居ましたが、」という前置きを置いたうえで、このように誉めてくださったのである。私が天にも昇るほどに嬉しくないはずがあろうか。

「文壇史に名が残る」という言葉に、私は伊藤整の『日本文壇史』という本を思い出した。文壇には広狭二義があるという。なぜ平川先生が文学史ではなく文壇史という言葉を使われたのかは、私にはわかない。石原慎太郎という偉大な作家がいて、その関係者の一人の書いた石原慎太郎との私的時間の話、という意味で、文学史ではなく文壇史と言われたのだろうなと理解した。そこには、石原慎太郎という、ただの文学者を超える人物についての平川先生の高い評価があるがゆえに、石原慎太郎との時間について書いた私の本にも一定の価値があるということのように思われた。

現在の私自身は、日本の文壇なるものにはまったく関心がない。存在しているのかどうかもわからない。以前、石原千秋さんが産経新聞に「時評 文芸」というコラムを連載していらしたころ、石原さんの率直なものいいに惹かれ、毎回を愉しみに、面白く拝読した。狭い、お互いを知りあっている、書かれたものの背後にある書かれていない細かいニュアンスまでも暗黙に了解し合ってコミュニケートしている微小な世界があり、そうした世界の住民がどうやら未だ存在しているらしいということを想像させたからである。

石原千秋さんの評は小気味よい。

たとえば、平成30年(2018年)3月25日にはこうある。

古市憲寿『彼は本当に優しい』(文学界)のラストは、『車窓から東京湾に目を向けると、鋼のように分厚い雲が海上に広がっていて、今にも雨が降りだしそうだった』といかにも小説家風。はいよくできました。高校生の文芸雑誌レベルである。」

その直後には、

「先月の壇蜜『タクミハラハラ』は中学校の文芸雑誌レベルだった。文学界は何をやっているのだろう。」と遠慮会釈なく切り捨てる。

同じ年の4月29日、石原氏は川上未映子を子ども扱いする。

「ナルシシズムを一顧だにしない鈍さに脱力する』

私は、毎日弁護士として大人の世界を生きている。私の仕事は国際的な場にまたがっているから、「大人の世界」と言うことができると思っている。甘えは通じない。江藤淳が言ったとおり、「国際的であるとはよそ行きでいるということ」だからである。アメリカの判決はアメリカで勝手に下され、日本で半ば自動的に執行されてしまう。大人として世を渡らなければ破綻するのみであろう。また、アメリカであれどこであれ、その資金は株式市場に投じられれば日本の上場した会社の支配権に及ぶ。

現在の私の関心は、弁護士としての内外の依頼者のための仕事にあり、事務所の経営にある。また、個人としては日本の失われた30年の原因とその復活の道、未来の姿にある。それは、当然のように戦後の日本への知識欲につながり、アメリカとの戦争を始めた日本についての興味につながる。アメリカとの戦争についての関心は、一方で2.26事件への興味、殊に安藤輝夫大尉の思いへの関心を掻き立て、他方で中国との戦争にいたった明治維新以降の日本のもっていた別の可能性につながる。

そうした関心は、すべて未来を占うためにある。占う方法は、たとえばロシアに武力攻撃を受けているウクライナと祖国日本を比することである。

失われた30年はまた、プラザ合意とはなんであったのかについての私なりの解明へ向かわせる。なかでも半導体協定についてもっと知りたいという熱意がふつふつと湧き出る。

牧本次生さんの『日本半導体の復権』(ちくま新書)に出逢った私は、自分の理解してきたプラザ合意、その後の決定的な日米関係の経緯について、牧本さんに「これは一種のトラウマとなって長く尾を引いたように思う」と改めて教えていただいた。(172頁)

これ、とは、すぐ前にある「突然の301条の発令とトップ会談の決裂とは、日本政府と民間企業に対して米国の怒りの大きさを強く知らしめ、日本はすっかり萎縮してしまったのだ。」とある部分を指す。トップ会談とは、通商法301条に基づき日本を制裁すると米国が発表した直後、1987年4月に中曽根首相が急遽渡米して臨んだレーガン大統領との会談のことである。それが決裂したのである。

「長く尾を引いた」とあるのがなんとも牧本さんの思いを印象的に伝える。そうしたトラウマの状態で日本は構造協議をしなければならなかっただけではない。その後の、今に連なる日々を生き続けているのである。

牧本さんの本を読み始める前から私は、クリス・ミラー『半導体戦争』(ダイヤモンド社 2023年刊)を読んでいたのだが、牧本さんの本を読み始めて中断した。

そもそも、私がこの二つの本に出合ったのは、令和5年(2023年)3月12日の産経新聞にのっていた「産経書評」欄で、寺田理恵さんが取り上げて論評していたことに強く興味を惹かれてであった。伊藤さんは『半導体戦争』を大きく取り上げ、その次に牧本さんの『日本半導体の復活』に触れていたのだ。

寺田さんは、「80年代になると日本が(初期半導体製品を:筆者注)家電製品に使って世界市場を制覇した。だが、日米半導体協定と米国による対日制裁をきっかけに日本のシェアが急落。90年台に電子産業の主役が家電からパソコンに移ったが、日本はデジタル革命の潮流に乗れなかったと指摘する。」と牧本氏の本を紹介する。

私が牧本さんの本をいかに夢中になって読み進めていたのかは、その本を読み進めながら泊りがけの出張に出る機会があり、それならば出張先での孤独な夜にこの本を読み進めることができると愉しみにしていたのに、なんとその本を持っていくことを忘れた一件が示している。本を持ってくることを忘れてしまったことに気づいた私は、その街の本屋に飛び込み、ちくま新書のなかから『日本半導体の復活』を探し出し、勇躍買い求めて、その夜のうちに読み切ってしまったのだ。私は自分でその新しい本を下巻と名付け、以前の本を上巻と名付けた。それぞれに読む過程でマークが施されているから、一冊では不完全なのである。お話しする機会のあった牧本さんにもそう申し上げた。

牧本さんの本を読み終わり、私はただちに『半導体戦争』に取って返し、これも夢中になって読み切ってしまった。

第20章は「パックス・ニッポニカ」と題されている。

そこにはソニーの盛田昭夫が「ニューヨークにいるときは必ず、メトロポリタン美術館の真向かいにある5番街82丁目のアパートに、市(まち)の富豪や有名人たちを招いた。」(161頁)と記載されていている。また盛田が、「アメリカが弁護士の養成に励んでいるあいだ、日本は技術者の養成に精を出していた。」と説いた、とあり、さらに盛田は、「今こそ、アメリカの友人たちにはっきりと伝えるべきときだった。日本式のやり方の方が単純に優れているのだ、と。」と、出典を盛田の『made in Japan』として、「日本の経営者陣が「長期的」にものを考えるのに対して、アメリカの経営幹部たちは 、「今年の利益」にこだわり過ぎた。」とも振り返る。それは、1989年の盛田と石原慎太郎の共著『「NO」と言える日本――新日米関係の方策(カード)』につながる。

しかし、第28章は「日本経済の奇跡が止まる」と題されている。

そこでソニーの盛田はこんな風に描かれる。

「ジャパン・アズ・ナンバーワンの体現者だった彼にとって、この言葉を信じるのはたやすかった。ソニーのウォークマンをはじめとする消費者家電を追い風に、日本は反映を遂げ、盛田は財を築いた。」(219頁)

「ところが、1990年に危機が襲いかかる。日本の金融市場が崩壊したのだ。(中略)一方、アメリカはビジネスの面でも戦争の面でも復活を遂げる。わずか数年間で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」はもはや的外れな言葉に思えてきた。日本の不調の原因として取り上げられたのが、かつて日本の産業力の模範として持ち上げられていた産業だった。そう、半導体産業である。」(220頁)

クリス・ミラーが述べる日本の半導体産業の崩壊は、牧本氏の本を読んでいた私には地政学的な歴史分析が足りないように思われる。

日米の力関係のことである。彼は、日本の半導体産業は「政府が後押しする過剰投資という名の持続不能な土台の上に成り立っていたのだ。」と結論づけ、日本の経営者の怠慢を非難する。そして、「アメリカの非情な資本市場は、1980年代にはメリットと思えなかったが、裏を返せば、融資を失うリスクこそがアメリカ企業を用心させたともいえる。」(221頁)

そんな単純な話だろうか。そこにはレーガン・中曽根会談の決裂は登場しない。要するに政府の不当な保護のもとにあった日本の半導体産業が、バブルの崩壊で当然のようにつっかえ棒を失ったというだけのことである。野放図に膨らみ、高転びに転んだ、ということだけである。

アメリカ政府がなにをしたのか、日本のトラウマとして長く尾を引いた背後に決定的なものがあったのではないか。アメリカ人である著者には、日米半導体協定とその後は重要なものとして目に入らないのかもしれない。

盛田が1993年に脳卒中に倒れ、健康に深刻な問題を抱え、公の場から姿を消し、「余生の大半をハワイで過ごした末」、1999年に息を引き取ったという記載は、正に「パックス・ニッポニカ」の破綻の象徴として記載されている。(223頁)

私の読書は、もちろん仕事の合間でしかあり得ないから、一読本を置く能わずということは少ない。たびたび置かざるを得ないのである。それでも、この本は巻を置いてもまたすぐに取り上げずにはおられないという意味で、まことに面白かった。

私は、牧本さんの本により、やはり失われた30年の源はプラザ合意、そして半導体協定、さらには敗戦にあるなと思い定めた。

考えてみれば、私が北越と王子製紙の買収戦に関わったのも、失われた30年の一コマである。友人の記者の云ったことは、その30年が長引くという警告だったということだろう。

現に、今の私は敵対的買収を同意のない買収と言い換えようという経産省の方針に同調している。最近の海外ファンドによる創業ファミリーの追い出し事件は、私のコーポレート・ガバナンス論に沿っていると考えている。

私は、去年の9月に私が出した『日本の生き残る道』(幻冬舎刊)について、畏友の元財務次官の丹呉泰健氏のくれた感想、「君の云うとおりだ。日本復活のためには①政治に頼ってはダメ、②コーポレート・ガバナンスしかない、③場合によっては海外の力を借りなくてはならない。」という考えにピッタリと一致した動きをしている。もちろん、日本は復活できると信じているからである。この日本を子ども、孫の世代に遺すに足る国にするのは、我々団塊の世代の責任だと思い詰めているからでもある。

それは「仕事」だろうか?

それこそ仕事だろう。この年の年賀状に記したとおりの、「自ら定義する」ところの仕事であるに違いない。

と言いながらも、いや少し待て、という声が心のなかに聞こえる。都合が良過ぎる気がするのである。自分でやりたいことをやりたいようにしているだけではないか、それを「仕事」などと呼んでいいのか、という声である。

弁解したくなる。

少なくとも、私は金を求めてこの仕事に携わろうとしているのではない。私利私欲はない。

ところで、ジャパン・フォワードというネット発信媒体をご存じだろうか。

フジサンケイグループが主催し、日本発の対外情報を目指して2017年に発足し、つい最近6周年を祝ったばかりである。中心人物は、大田英昭元フジ・メディア・ホールディングス社長である。私はアフラックの創業者である大竹美喜氏を中心とした勉強会でともに学ぶ仲である。

日本の外国向け情報といえばNHK、朝日新聞、そして共同通信といった観があったところへ、なんと発足間もないジャパンフォワードが急速な発展を遂げ、今ではNHKに次ぐ注目を浴びているのだという。

その祝賀の式で、私は乾杯の音頭をさせていただく栄誉を頂戴した。小池東京都知事、斎藤健法務大臣など著名の方々のご列席の場でのことである。

なぜ私が、と不思議の感があったが、どうやら理由は、ジャパン・フォワードに連載していただいている『少数株主』(幻冬舎刊)という私の小説の英訳が、常に上位にランクインしているとい事実らしい。ジャパン・フォワードの中心人物の一人である古森義久さんに教えられ、我ながら少し驚いた。

『少数株主』は2017年に幻冬舎から出したビジネスロー・ノベルである。日本における非上場の株式会社の少数株主のおかれたあまりに劣悪な地位を世の中に紹介すべく、憤慨とともに世に出した小説である。題名は幻冬舎の見城徹社長がつけてくださった。大いに売れ、今でも幻冬舎文庫の一冊として名を連ねている。発刊をきっかけにたくさんの少数株主の方々のために裁判所で活動し、いまでは日本の裁判実務に相当の影響を与えるところまで来ていると自負している。担当の弁護士たちが情熱を傾けて勤しんでいることと、法的な助言を惜しまれない久保田安彦慶応大学教授の力とが「山を動かす」ことを可能にしたのだと感謝している。

そのようなことが我が人生に起きるとは、という感慨がある。弁護士になって44年、法律事務所を主催するようになって38年、そのすべての日々がここにつながっていると感じる。

具体的には、1988年に依頼を受けた中規模の輸入商社の乗っ取り事件がきっかけだった。ドイツからの工作機械の輸入専門商社だったのだが、もちろん非上場で、港区神宮前4丁目の数百坪の土地の上に本社社屋があった。その会社の創業者が認知症を患い始め、二代目を継いでいた社長が営業に忙しいことをよいことに、創業者の番頭とも称すべき立場の人間が密かに株を買い集めていたのである。

非上場のさほどの規模でもない、内輪だけの株主の会社だったから、いつも形式的な手続きの取締役会と株主総会で済ませていた。ところが、1988年の株主総会でその番頭格のW氏が、「私がこの会社の株の過半数を有している」とテーブルを人差し指と中指の2本

で強く叩いて音響をあげて出席者を驚かせ、あっという間の決議で社長以下を追い出してしまったのである。会社の持っている本社土地に目を付けてのことである。時はバブル真っ最中であった。

私への依頼は、社長のY氏の義弟である別の依頼者の紹介だった。

早速裁判を起こし、代表取締役と取締役の職務執行の代行者の選任の仮処分を裁判所から得て、本格的な法廷闘争が始まった。規模こそ違え、城山三郎の書いた『乗取り』そのままの紛争である。

最終的には職務代行者であった弁護士3名の方々の努力のおかげで、依頼者にとって、一方で会社を取り戻すことはできないという意味でまことに残念な結果と見える和解となった。しかし、金銭的にみれば、まことに有利な和解ということもできる結果であった。深夜、銀行の支店の会議室で何億という現金を数えるということがあって、決済もつつがなく終了した。

後日談がある。その事件の関連した事件の裁判で、問題となった土地の価格が話題となったのである。バブルのピークでの事件であったが、坪8000万とも1億とも言われていた問題の土地が、数年後のバブル終焉後には10分の1の値段にもならないと聞いた。会社を取り戻すには、和解で100億の金を借りてくる必要があった。それが可能なご時勢だった。

もしそうした和解になっていたら?依頼者は破産したことであろう。当座は不満ではあっても、結果的には幸運な和解であったのだと、依頼者ともども、しみじみと思ったことではあった。

写真)広島市

出典)Yuko Yamada/GettyImages

「三回の欠礼、M&Aとコーポレート・ガバナンス、そして人生と仕事」

【まとめ】

・会社は経営者次第、そしてその会社が社会で存在している意義は雇用を維持・拡大するため。

・今の私は「問題は人生とは何か」だと言うだろう。

・これから先に何を求めたものか。自分としてはおぼろげながらも分かっているつもりだ。

この年の賀状には、なぜ「久方振りに賀状を差し上げます。」と書かねばならなかったのか。

確かに、平成16年、17年、18年の三回、賀状を出していない。平成16年、2004年の欠礼については、その理由をわすれることなどあり得ない。もう一回、平成17年、2005年は前年に母が亡くなったが故の欠礼だった。しかし、もう一つは?平成18年、2005年の欠礼はなぜ?

実は、平成18年、2006年の賀状と思われる原稿は、最終稿の形で手元に残っている。前年の年末、翌年の年頭のために賀状を準備万端が終了した後になって、いったいなにが起きたのか。

あの時、目の前、私の事務所のデスクの上には大量の印刷済みの賀状が積まれていた。その光景をよく覚えている。それにもかかわらず、敢えて「出さない」と年末ぎりぎりに、誰もいなくなってしまった事務所の自分の部屋で独りで決心し、その印刷済みの年賀状を放擲したのだ。

平成19年のものと同じく、「久方振りに賀状を差し上げます。」と文案は始まっている。その以前2年分を指していることは間違いない。「その間に何があったのか。目の前の仕事を片づけることに追われていると一年が経っています。私の時間は一週間を単位に、それがあたかも一日であるかのように慌ただしく過ぎ去ってゆくようです。」というのは、翌年の年賀状、実際に出したものと瓜二つ、まったく一字一句違わない。

なにがあったのだったか?

私にとって、年賀状を皆さんのお手元にお届けする、それも正月元旦に間に合うようにお届けすることはとても大事な、長い間の暮らしの一部であり続けた。長い間、そうだった。初めて購入した自宅、公団のテラスハウスを買った年の年末、毛筆で宛て先と相手の氏名を書くという年賀状書きに追われたのを覚えている。あの回、やっと何千枚かの年賀状を書き終えたときには、もう正月に入っていた。ただ毛筆で書くという作業に執着したばかりに、中身のない「謹賀新年」の賀状を出したのだった。

それでも、「墨痕鮮やかな年賀状をありがとう。」と返してくれた友人がいた。『孵らなかった芸術家の卵』の主人公、元抽象彫刻家、当時ハンコ屋の専務だった高校時代の友人だった。その返事がありがたく、妙に記憶の底に残っている。

ところが不思議なことに、平成18年の賀状を出さない結論に踏み切った原因を思い出すことができない。記憶が欠落している。書いてある文面のどこかがどうにも気に入らなくて止めたのだったと推測してみるのだが、どうにもはっきりしないのだ。

文案には「二月。広島に帰りました。」ともある。なぜ帰郷したのか、いまではもうその理由もわからない。いったいなぜ年賀状を出すのを止めると決断したのか。なにかよほどの理由、経緯があったに違いない。だが、それを今はおぼえていない。では、いつまでは覚えていたのだろうか。もっと以前のことも沢山覚えている。人の記憶というのは、大脳のなかに映画のように順番に映像と音とがつながっているのではないと読んだことがある。回想するたびに記憶を創り出すのだ、とあった。

ひょっとしたら、「二月に広島へ帰りました。原爆ドームの街。私にとっては小さな橋と細い路地の街」とある部分が引っかかったのかもしれない。それが比治山橋という名の木造の細い頼りない細長い橋を指していたことは覚えている。目の前に積み上げられた、印刷済みの文案のその部分を読んで、その橋、細い路地をいっしょに歩いた或る女性の記憶が余りに生々しく蘇ったせいなのかもしれない。

あれは私が中学生の時のことである。つまり、文案のときからそれは40年前のことである。平成18年の年賀状を準備したのは55歳のときである。55歳の、分別ざかりの弁護士は、年賀状の文案を読み直してみて40年以上前の子どもだったころの女性との思い出が突然心のなかにあふれ出し、センチタルな感慨に全身が囚われてしまい、その思いをほんの少しでも表にだすことが恥ずかしくて堪らなくなったということだったのだろうか。

だが、私の賀状はその女性には届かない。

にもかかわらず、広島の「小さな橋と細い路地」と書いてある部分を読んでも、誰一人として顔が炎に包まれたような私の衝撃を想像もしないだろう。それでも、あの年末、私はそのように感じて、決定を下したのだろうか。

わからない。たぶん、そんなことではなかったのかもしれない。どうやら、人は自分の過去とそのように曖昧に付き合って生きるしかない生き物のようだ。

「八月。首都高を走っているとなる携帯。」

このことはよく覚えている。今も毎週のようにこの高速のあの部分を通る。そのたびに、ああここだったな、と思い出している。弁護士としての一つの頂点にいたる大きな瞬間だった。

携帯の鳴ったのはレインボーブリッジ方面への芝公園出口の直前だった。車を飛ばしていた私は急いでスピードを緩めて芝公園の出口から車を出し、すぐ脇の道路脇に車を停めた。電話をくれた依頼者に電話を返し、その年の夏休みが消えることになった。「短すぎる夏の煌めき」とは、上の空のうちに過ぎてしまったあの夏のことである。

王子製紙が北越製紙を敵対的に買収するとした公開買付があり、56歳の私は北越製紙の代理人として防衛側に立った。攻防の結果は、王子製紙が諦めて終結に到った。最後にはあっけない展開だった。野村證券がアドバイザーとして王子側についていて、最大級の法律事務所も助言していた。撤退は王子なりに内部的な理由があって、腰砕けのような終わり方を選んだのだろう。あのときもいまも、不可解な点が多い。

渦中にいた私は法廷闘争になることを覚悟していた。どうすれば、どう説明すれば裁判官の琴線に触れることができるのか、裁判官に「なるほど、北越側が勝たないとおかしい」と思ってもらえるのか。それを一心に考えた。考え抜いた。そしてたどり着いたのが、今に続く、株式会社は雇用のためにあるという発想だった。私なりの歴史観、社会観にもとづく株式会社論だ。会社は経営者次第、そしてその会社が社会で存在している意義は雇用を維持・拡大するためだというものだ。株式会社は株主のものではない、人々のためにこそあると結論した。従業員中心は戦後日本の歩みと重なり、今ではマルティプル・ステークホルダー論として世界中で認められている。

その後、ロバート・ライシュの「国の経済は居住する国民のために存在すべきであり、その逆であってはならない。」という言葉に出会ったとき(『格差と民主主義』104頁 東洋経済新報社2015年刊)、私は心から彼に同感することができた。講演の機会があるごとに、この言葉を引用することが多い。

最近はサステナビリティが大流行りだが、会社がサステナブルであるべきなのは何のためなのかと問えば、未来の社会のため、ということになるだろう。未来の社会とは?未来の個人を創り出す現在の個人の集合である。我々から考えても子々孫々のということになる。

私は、漠然として抽象的なサステナビリティよりも、具体的な、顔のある個人の観点を踏まえてのサステナビリティへの関心が深い。そういえば、石原慎太郎さんに「牛島さん、この世は男と女なんだよ、みんな恋愛小説を読みたいんだから」と言われ、「それはわかります。でも私は組織と個人の関係が気になってならないのです」と答えたことがあった。

その昔、ある巨大組織の一員である依頼者と話していて、「組織って面白いですねえ」と言ったら、「面白くもなんともないですよ」と、吐き捨てるように言われたことがある。大組織の中間にいる方だった。いまはもう退職されているだろう。それが「組織と個人」ということなのだと思っている。

王子の敵対的な北越買収の失敗については、或る日経の記者の方に、「あなたのせいで、日本経済の発展が10年は遅れた」と批判されたことがある。

「私などではなく、北越の方々、上から下までの方々の団結の力です。真っ当なことが起きたのです。」と答えた。正直な感想だった。もちろん弁護士である私にとって、彼の言葉は誉め言葉でしかない。弁護士は社会全体を依頼者として、そのために働いて報酬を得るのではない。目の前の特定の依頼者のためにこそ働くのである。もちろん、その繰り返しが回りまわって世の中全体の法の支配に役立つという信念が背景にあってのことではある。自分の信条に反する仕事は受けない。自由業の良さである。

先に依頼してきた側につくのが原則だ。それから先は、依頼者が了解するかぎり、やり過ぎてしまうことを怖れない。やり過ぎもまた長い視点で、広い発想でみれば、すべて法の支配に役立つ。そう信じている。

「問題は仕事とはなにか」であり、「それは自ら定義するものだと私は強く思っているのです。」とは、なんとも不思議な言葉だ。

言葉は社会が定義する。辞書にはそれがある。仕事とは「する事。しなくてはならない事。特に、職業・業務を指す。」と広辞苑にある。

私が考えていたのは、弁護士としての仕事は仕事であることに疑問の余地はない。しかし、弁護士が小説を書くことは仕事なのかどうか。それは、自分が小説をどのようなものとして我が人生に位置付けているかという問いにつながるということだったのだろう。仕事でないとすれば、遊びになる、という二元論があった。そこには、遊びは人生の無駄事であるという暗黙の前提がある。

私のその習性は、小学生のときから受験のために生きてきたという経緯があってのことだ。東大に合格するために役立つことしかしてはならない、それ以外に時間を費やすことは「罪」だと思いながら、しかし「それ以外」のことをして生きてきた20年があり、その後は「雀百まで踊り忘れず」で、そうしたものの見方の虜になって生きてきたような気がする。東大は司法試験に替わり、さらに弁護士としての目的達成になった。

弁護士業は、依頼者を獲得し、その依頼者のために他の弁護士の誰よりもより良い結果をもたらし、約束した報酬を受け取る、という仕事だ。時間制で報酬をもらうのは、常に最善の結果のために働いているということであって、この理を変えない。

そうやって生きてきて73年。

今の私は「問題は仕事とは何か」ではなく、「問題は人生とは何か」だと言うだろう。前提にあるのは、仕事は人生の全てではない、という自明のことである。20歳までの私はそう思っていなかった。滑稽というしかない。人生は、もしあるとすれば、東大に合格した後にあると考えていたのだ。それほどに受検勉強の圧迫感は強かったと言うしかない。

東大入試が中止になったあおりで2浪となった。そうした私が大学に入学した後に大学で学ぶことに関心が湧かなかったのは少しも不思議ではないだろう。入学後、私は大学とはなにかを自分で勝手に定義したのである。私は自宅で本を読むことに熱中していた。会心の快楽の日々である。読書は、相対性理論から鷗外、漱石まで、あらゆる分野にわたった。

それ故にこそ、私は司法試験の勉強については勤勉だった。が、大学へ行った学んだことは少ない。星野教授の民法総則と民法演習を少々、それに会社法を鳳先生に。しかし幸いにして、司法試験の勉強の教材は巷に溢れてかえっていた。独学である。

そんな私が弁護士として生き続けられたのは、弁護士という仕事がよほど性に合っていたからなのだろう。弁護士となってからも勉強は続き、それは独学であるしかない。大歓迎である。

むしろ具体的に存在したのは、弁護士として時間が多過ぎるという事実だったのだと今にして思う。私は恋愛小説を書くことで文士になることも欲していたのだ。私の書いた小説には恋愛はほとんど登場しない。

「恋愛小説を書け」と、素晴らしいチャンスを石原慎太郎さんがくださったにもかかわらず、私は書かなかった。なぜかは分かったようでいて、よくわからない。

我が人生は、これまでのところ幸運の連続だったから、求めたものの一定部分はそれなりに得られた。幸運には感謝の他ない。もっとも、「人生ってのは運ですぜ、先生」とうそぶいていた某有名社の社長は後に失脚した。確かに彼は幸運のおかげで傍流から社長にのし上がった。しかし、そこまでだったのだ。どうやら、幸運は過去形でしか存在しないもののようだ。

さて、これから先に何を求めたものか。自分としては、おぼろげながらも分かっているつもりである。

トップ写真:中曽根総理大臣とレーガン米大統領(当時) 1987年4月1日 アメリカ・ワシントンDC

出典:Photo by Diana Walker/Getty Images

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