ハリポタ図書館で読書にふけったアダム・スミス、生誕300年の今も英国で受け継がれる精神

アダム・スミスの「諸国民の富」の初版本を説明するキャロライン・ハウィットさん=6月、英エディンバラ(共同)

 「近代経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスが英国に生まれてから今年で300年を迎えた。市場の調節機能を唱えた「見えざる手」の経済学者として語られることが多いが、映画「ハリー・ポッター」のロケ地となった図書館で読書にふけり、哲学や天文学など幅広い学問の研究に身を費やした思想家でもある。生まれ育った英北部スコットランドを訪れその足跡をたどると、仲間との語らいを大切にしたスミスの精神が今でも受け継がれていた。(共同通信=宮毛篤史)

 ▽シングルマザーに育てられ、14歳で大学入学

 洗礼の記録からスミスは1723年6月にスコットランドの港町カーコーディで生を受けたとされる。父親は税関職員だったが、スミスが生まれる前に亡くなった。母親が女手一つで育て、スミスもその愛情に応えた。スミスは生涯独身だった。幼少期から勉学に優れ、14歳でグラスゴー大に入学した。ラテン語が得意だった。学生数は約200人で、当時は14歳での入学は珍しくなかったという。

 1451年に設立されたグラスゴー大は、世界大学ランキングのトップ100常連の名門だ。大学ではスミスの教えを受け継ぎ、アダム・スミス・ビジネススクールを運営する。キャスリーン・リアック教授は「当時の敷地は26エーカー(約10万5000平方メートル)あり、神学のジョン・シンプソン講師が牛を飼うなど牧歌的な雰囲気を漂わせていた」と語る。

 ▽ハリポタ図書館で独学の日々
 スミスはここで論理学、数学、物理学、道徳哲学などを学んだ。特に道徳哲学のハチソン教授との出会いは、その後の人生に大きな影響を与えた。スミスは経済学者として名が知られるが、根底には道徳がある。

 1740年、スミスは奨学金を得てオックスフォード大に入学したが、教授陣にやる気が感じられず「教えるふりさえしない」と不満を抱いた。独学に時間を費やし、大学のボドリアン図書館で読書にふけった。

 この図書館は映画「ハリー・ポッター」の魔法魔術学校に登場する図書室のロケ地で、ファンにはなじみが深い場所だ。オックスフォード大を去り、故郷のカーコーディに1746年に戻った。

 ▽再びグラスゴーへ。「幸せで名誉な時期」

パンミュアハウス近くにある教会のアダム・スミスの墓=6月、英エディンバラ(共同)

 スミスは充電期間を終えた後に表舞台での活動を始め、エディンバラで公開講義を行った。その内容が評判を呼び、1751年に論理学教授としてグラスゴー大に戻った。翌年には、恩師ハチソン教授が務めていた道徳哲学教授に転任した。

 植民地だった北米やロシア、スイスから留学生を呼び込む人気講義となり、代表的な著作「道徳感情論」もこの時代に刊行された。スミスは話した内容を生徒がノートにひたすら書き写すことを好まなかった。講義を集中して聴き、その内容を深く考察することを求めた。

 当時は教授の人数が少なく、スミスは大学で図書の担当も務めた。この時に購入された蔵書は今も大学図書館に残されている。道徳感情論の初版本やスミスの手紙もあり、生誕300年を記念して公開された。

 スミスは晩年、ここで過ごした日々を「私の人生で最も有意義で、だからこそ最も幸せで名誉な時期だった」と振り返っている。

映画「ハリー・ポッター」の世界を思わせるグラスゴー大=6月、英グラスゴー

 ▽貴族の家庭教師として欧州旅行
 1764年、スミスは13年間務めたグラスゴー大を退職した。貴族の家庭教師として欧州旅行に随行するよう強く求められたためだ。葛藤はあったが、外に出て見聞を広めることを決めた。

 欧州各地を巡り、農業振興を訴えた「重農主義」を広めたフランスの経済学者フランソワ・ケネーら時代の先端を走る思想家と交流し、刺激を受けた。ただ、南フランスでの日々はつまらなかったようで、親友の哲学者デイビッド・ヒュームに送った手紙で「子供たちは物事を知らず退屈だ。だから僕は時間をつぶすために本を書き始めた」と伝えている。その後、書き上げたのが歴史的な名著となる「諸国民の富」だった。

 ▽見えざる手

観光客の写真スポットになっているアダム・スミスの銅像=6月、英エディンバラ(共同)

 諸国民の富は1776年に刊行された。スミスの名声は英国のみならず欧州にも届き、初版は半年で完売になった。

 日本では以前、「国富論」と呼ばれた。国富だと経済発展を通じて軍事力の強化を図る明治政府の「富国強兵」のイメージと重なるが、今では諸国民の富と言われることが多い。

 この中で最も有名な一節は、一人一人が自分の利益を追求すれば、見えざる手に導かれるようにして結果的に社会全体に富がもたらされるとの考えを提唱した「見えざる手」だろう。

 国内産業を保護し、輸出の促進を通じて金銀を蓄積することで富の増大を目指す重商主義や植民地主義を批判した。この教えは資本主義社会発展の理論的な支柱となり、自由貿易が興隆していった。

 ▽評価巡り論争は今も続く
 スミスは自由競争貿易を訴える一方で、教育など国家が果たすべき役割や道徳の重要性も主張していた。単純な市場放任主義者ではなかったが、「自由市場の擁護者」「市場原理主義者の権化」などと、その評価を巡る論争は今も続く。

 当時の英国は既得権益が守られ、その代表的な存在が国家の手厚い保護の下で貿易を独占した東インド会社だった。スミスは見えざる手という言葉に、英国の古い政治や経済体制を批判する意味合いを込めたとも解釈できる。

 「『神の』見えざる手」と言及されることもあるが、スミス自身は「神の」とは記していない。グラスゴー大のリアック教授は、キリスト教を信仰する読者が、神が全てを導くという「神の摂理」の思想を重ね合わせた結果だと推測する。「スミスが興味を持っていたのは、意図しない出来事から何らかの秩序が生まれるという考えだった」と解説する。

グラスゴー大が運営するアダム・スミス・ビジネススクールのキャスリーン・リアック教授=6月、英グラスゴー

 ▽旧居宅を再建し、討論の場に
 スミスは1778年、スコットランドの税関委員に任命され、エディンバラに移り住んだ。世界遺産に登録された美しい街並みの象徴が、岩山に築かれた要塞エディンバラ城だ。その城から海に向かう長い長い坂道を下る途中に、スミスが1790年に亡くなるまで過ごしたパンミュアハウスが残されている。老朽化したハウスを地元のヘリオット・ワット大が2008年に購入し、社会問題を討論する場として10年かけて再建した。

 スミスが日曜日に夕食会を催し、友人を招いて意見を交わしたことに着想を得たという。ハウスのプログラム・ディレクター、キャロライン・ハウィットさんは「スミスは第一に教育者だった。自分の考えを示し、議論することを好んだ。私たちは、この場所を単なる博物館にしたくはなかった」と語る。

アダム・スミスが晩年を過ごしたパンミュアハウス=6月、英エディンバラ(共同)

 ▽墓碑に刻まれた功績
 スミスは死に至る際に書きためた草稿類を焼却させた。親友であるヒュームの死後、未完成の作品を遺言に従い出版したところ大きな論争や批判を呼んだことが理由のようだ。ハウィットさんは「スミスは徹底的した完璧主義者だった。自分が完全に正しいと思っていないものが世に出回ることを望まなかった」と推察する。

 ハウスの近くにはキャノンゲート教会がある。最愛の母が信心深いキリスト教徒で、すぐお祈りに行けるように配慮して住居を決めたためだ。教会を正面に見て左の小道に進むとスミスの墓があり、墓碑には功績が端的に刻まれている。「道徳感情論と諸国民の富の著者アダム・スミスここに眠る」。今も巡礼者が後を絶たない。

パンミュアハウス近くにある教会のアダム・スミスの墓=6月、英エディンバラ(共同)

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