第五福竜丸 被ばく前の写真を公開 静岡・焼津市

1954年3月アメリカの水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」。静岡・焼津市出身の男性が、約70年の時を経て、焼津を母港としていた「第五福竜丸」の被爆前の写真を新たに公開しました。

焼津市歴史民俗資料館で6月から始まった写真展。1954年3月アメリカの水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」が、被ばくする前の様子を収めた写真、約50枚が展示されています。この写真について、都立第五福竜丸展示館の学芸員は「とても貴重」だと話します。

(都立第五福竜丸展示館 学芸員 安田和也さん)

「第五福竜丸が日常的に操業する写真、乗組員の日常が分かる写真は初めて見た」「当時カメラを持っている人はほとんどいない時代なので、貴重な写真」

この写真を公開したのは、焼津市出身の清水 篤さんです。父の昭二さんは20代のころ「第五福竜丸」が被ばくする前に船長を務めた経験があり、1950年代の第五福竜丸で働く乗組員の姿をアルバムに残していました。第五福竜丸が被ばくした航海には乗船していなかった昭二さんは、これまで写真を公開していませんでしたが、昭二さんの息子、篤さんが来年、第五福竜丸が被ばくして70年を迎えるのを前に公開を決めたといいます。

(清水 篤さん)

「70年経ち、いろいろな記憶が薄れる、核の問題が取りざたされている中で、ビキニ事件を思い出してもらうひとつのいい機会ということで」

過酷と言われる遠洋漁業の航海ですが、昭二さんが写真に収めていたのは笑顔の乗組員の姿でした。

(清水 篤さん)

「実は三崎出身の船員と、焼津出身の船員と仲が悪くて」「多分、父親も船長という立場で乗組員同士仲良くやりたいということもあって、みんなの笑顔をなるべくたくさん撮ったと思う」

写真には、撮影した場所などはっきりと情報が書かれていなかったため、地元・焼津の資料館で写真の手がかりとなる情報提供を呼び掛けています。早速、会場では当時を知る人の声が聞かれました。

(第五福竜丸 漁労長・見崎 吉男さんの娘)

「この方が父のいとこの見崎進さんだと思う」「進さんは本当に優しいおじさん、結構会っていたが気さくな方で、おーいっていう感じで」

写真は焼津歴史民俗資料館で9月3日まで展示される予定で、今後、焼津市内や都内での写真展の開催も検討していくということです。

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