井頭公園一万人プール(真岡市下籠谷)が1973年の開業から50年を迎えた。海なし県である本県のレジャープールの先駆けとして人気を呼び、半世紀で1千万人以上が泳いだ。「万プー」の隆盛期を振り返り、レジャープールを取り巻く環境の変化や今後を考える。
人気爆発、みんなが笑顔
旧西ドイツ製の造波装置がうなる。波のプールはもはや水より人の波だ。高さが15メートルある直線スライダーは階段下までひたすら行列が続く。入場券を売っても売っても終わりが見えない-。
「ものすごいんだから。人だらけだよ。お盆に日曜が絡んで晴れたら大変だった」。真岡市亀山、菊地英夫(きくちひでお)さん(72)は1973年、開業時の職員4人のうちの1人。約15年働いた。
運営は手探りだった。機械や設備の管理、入場や飲食の券売、アルバイトの運用、落とし物、迷子、車のロック、駐車場、宇都宮まで続く渋滞。何でも対応した。とにかく忙しかった。
あるとき、流れるプールの橋から水面を見た。「人がびっしりなのに全員笑顔なんだよ。こっちは仕事なんだけど『プールって楽しいんだな』と心底思ったね」
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「海なし県に海を」。1960年代後半から、県は明治百年記念事業や県勢発展長期計画の流れで、多様な施設が複合した県民レクリエーション公園とプールを整備することを決めた。
石坂真一(いしざかしんいち)真岡市長は「当時の岩崎純三(いわさきじゅんぞう)市長が懇親の場で横川信夫(よこかわのぶお)知事から公園の構想を聞き、すぐ真岡市内の視察を勧めたようだ」と話す。
井頭地区が第1号に決まり、総水面積1万500平方メートル、1人1平方メートルで1万人収容できる大レジャープールを目玉に掲げた。
開業すると1日100台近く子ども育成会のバスが来た。全県は言うに及ばず茨城、群馬からも押し寄せた。初年の入場者数は36万人、78年は歴代最多の44万人に達した。コロナ禍前の2019年は15万人で、およそ3倍。1日で最高2万7千人の人出を記録した。
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「もし親が目を離しても子どもだけで遊べる。なんと言っても安全だからだった」。菊地さんと同じ開業当時の職員、箕輪清道(みのわきよみち)さん(88)は振り返る。
1973年の全国の川や海での水難事故死者・行方不明者数は現在の4倍以上。落雷も含め事故防止、監視を何より徹底した。75年8月に男子中学生が心臓発作で亡くなる事故は起きたが、それ以来50年近く、死亡事故は発生していない。
「これからも誰もが安心して楽しめる施設であり続けてほしい」。箕輪さんは今も、プールの目と鼻の先に住む。庭木の剪定(せんてい)用の三脚に立つと、子どもたちのはしゃぎ声が50年前と変わらず響いてくる。