カオス!進化する宮﨑駿監督! 一体どう生きればいいんだ? 「君たちはどう生きるか」茶一郎レビュー

はじめに

今週の新作は『君たちはどう生きるか』。色々な意味で貴重な映画体験でした。『ハウルの動く城』以上の「宣伝をしない宣伝」を経て公開された本作。この時代、前情報が全く無い状態で映画を観るというのは、とても貴重で、こんなに緊張して映画を観るのも久々だったと同時にワクワクというか、子供の頃、図書館にある児童小説、絵本を表紙だけ見て読み始めた時のような高揚感を思い出させてくれました。製作委員会方式では決してできない、今まで監督が培ってきた「ジブリブランド」の作品でしかなし得ないこの「宣伝」も含めてスリリングな映画体験でした。ぜひ皆様も前情報なしで、この映画体験味わって頂きたいです。

個人的な3つのキーワード「三本の原作」「火と母性」「フェデリコ・フェリーニ」、きっと話しているとどんどんと他のキーワードも出てしまうと思いますが、このキーワードを軸に自分なりの感想をまとめたいと思います。

ザックリ感想

『君たちはどう生きるか』はグチョグチョ、ドバドバ、『崖の上のポニョ』で頂点と迎えたと思っていた宮﨑駿監督のイメージの数倍尖ったものが観客を襲ってきます。この脂っこいイメージの連発。初見時、全然違う映画ですが、『フェリーニのローマ』とかキューブリックの遺作となった『アイズ ワイド シャット』を初めて観た時のような、他人の悪夢に迷い込んでいるような居心地の悪さと不気味な感覚を強く覚えました。

まずストーリーよりも視覚的なイメージが先行するという、これは監督、『もののけ姫』以降…正確には漫画版『風の谷のナウシカ』以降でしょうか。ストーリーを決めずに絵コンテと他の作業を並行しながら映画を作っていくというスタイル。プロデューサーの鈴木敏夫さんは「連載漫画スタイル」と呼んでいます。故に『もののけ姫』以降の宮﨑駿作品は、ストーリーがぶつ切りで結論が分かりづらい難解な印象があると思います。おそらく本作でもそのスタイルを取ったであろう、監督の無意識の夢、おそらく監督自身も「よく分かっていない」であろう無意識のイメージを目撃するような映画に思いました。

ジャンルについて

これを言葉にすることにどれほど意味があることかは疑問ではありますが、ただストーリーはとてもシンプルです。第二次世界大戦下、母親を亡くした孤独な主人公・眞人が母方の別荘に疎開をして、その先で不思議な体験をするという。『不思議の国のアリス』形式。監督作では『となりのトトロ』、『千と千尋の神隠し』パターン。『紅の豚』では湾岸戦争、『ハウルの動く城』ではイラク戦争と、現実の状況を作品に強く反映してきた宮﨑作品、本作『君たちはどう生きるか』でも『風立ちぬ』に続き、第二次世界大戦下、国がファシズム、軍国主義に走っている抑圧的な環境を生きる主人公が描かれます。

抑圧的な環境に置かれた幼い主人公が、自分が主人公となり得るファンタジーを語る/自分が主人公のファンタジーを語られる事でトラウマ、傷を癒していく系譜のファンタジー。スペイン内戦下を舞台にした『ミツバチのささやき』、『パンズ・ラビリンス』。母親との関係性で言うと『怪物はささやく』こういった映画のジャンルのフォルダに入れられる本作「君たち~」です。この設定を整理するにあたって重要な原作・原案が大まかに三個あります。ちょっと丁寧すぎるかもしれませんが、一つずつ整理して本作をまとめます。

原案(1) 宮﨑駿監督の自伝的物語

本作のストーリーのジャンル一つ目は宮﨑駿監督の自伝的物語という事ですね。これプロデューサーの鈴木敏夫さんが公言されていますが、本作の主人公・眞人の設定は監督ご自身の半生が反映されています。

まず眞人のお父さん・ショウイチの造形ですね。父親はどうやら戦闘機の部品を作っている工場を経営している工場長か、社長か分かりませんが、これは実際に監督のお父様と伯父様が第二次世界大戦中、「宮崎航空機製作所」を立ち上げて航空機の一部、零戦の風防を生産していたと。劇中、鉄道が止まったと、風防を家に保管するシーンが出てきます。眞人の父も戦闘機の風防、キャノピーって言うんですかね、それを作っていると。眞人がその王蟲の目の抜け殻のように輝く風防を見て「美しいです」と言います。これは『風立ちぬ』に繋がる主人公の美的センスでしたね。「戦争は嫌いだけど、美しい戦闘機は好き」は宮﨑監督作に一貫した思想です。

監督も戦争中なのに裕福だったと仰っています。本作の眞人も戦争中とは思えない、少なくとも食べ物には困っていない。東京から砂糖やコンビーフの缶詰、タバコを持ってきて「ある所にはあるのねー」なんて裕福さが描写されます。とても印象的なのは父親が「みんな驚くぞ」なんて言って、眞人の転校先の学校に車で乗りつける。これも監督の過去と重なって、空襲の被害にあった監督一家が周りの人々が歩いて逃げている中、監督は伯父様のトラックで逃げたと、それに罪悪感を覚えたと語っています。監督はお父様の事を「デカダンスな昭和のモダン・ボーイ」とやや無責任な父親を揶揄している発言もありますが、本作の父・ショウイチもちょっと未成熟な軽薄な感じ、これを『ハウルの動く城』のまさしく精神的には未熟な子供のような大人ハウルに続いて、木村拓哉さんが軽い無責任な大人を好演されています。

特に作品にとって重要になのは、眞人と母親との関係性です。監督の幼少期、お母様が結核になっていまい病院に入院、退院後も8年間自宅で寝たきりだったと。幼少期に母が不在の家庭で育った監督の過去は、『となりのトトロ』など一貫して母性を強く求める監督作品に強く反映されています。お母様の療養後も、監督とお母様は衝突することが多く、左翼的な考えの監督の一方、保守的な考えのお母様が政治的な話題で泣きながら口論したという強烈なエピソードも印象に残っています。本作でも病院に入院していた眞人の母親が空襲で亡くなり、父が再婚した母の妹・ナツコ。眞人はナツコをどうしても「母」と認められない。母の不在と、母との対立は、眞人の2人の母親の描写に反映されているように見えます。

こういったようにかなり具体的に監督の半生が刻まれている『君たちはどう生きるか』です。前作『風立ちぬ』が飛行機の設計とアニメーションに重ねた、ある種、クリエイターとしての宮﨑駿監督の自伝的映画だとすると、本作はクリエイターになる以前の自伝的作品と位置付けられます。とても興味深いのは、宮﨑監督は「大人になるにつれて暗い幼少期を振り返るのはやめた」と。自分の子供時代の事を「みっともない」と表現している。鈴木敏夫さんが本作「君たち~」の主人公の事を「みっともない少年」と表現したのは、ここから来ているのでしょう。過去を振り返るのをやめていた監督が、こういった形で自分の闇の過去と向き合った。いよいよ監督ご自身が自分の語り得る物語をまとめてきている、封印していた過去を描いた自伝的映画として集大成と言える本作だと思います。

原案(2) 企画の元となった小説「失われたものたちの本」

ただ、ただですね。ちょっとややこしいのは、必ずしも100%自伝的な作品とは断定しづらいですんね。本作『君たちはどう生きるか』の設定のかなり基本となっている『失われたものたちの本』という小説があります。これ僕、ふざけて公開前にツイートしたら、結構、合っていたみたいで驚いたんですが。鈴木敏夫さん著の「スタジオジブリ物語」という書籍に、本作の企画の経緯がザックリ書いてありまして、こう書かれています。宮﨑駿監督が映画の企画として一本の小説を鈴木さんに渡したと。「宮さんが一冊の本をぼくに提示した。『読んでみてください』アイルランド人が書いた児童文学だった。(中略)いまこの時代に長編映画とするに相応しい内容だと判断した。翌朝、そのことを伝えると、宮さんは満足の表情だった」。調べると、アイルランド生まれの作家の児童小説に何と、宮﨑監督が推薦コメントを出しているじゃないかと。それが「失われたものたちの本」だったという訳です。

奇妙な事に、そもそも宮﨑監督の過去がこの「失われたものたちの本」の主人公が置かれている状況にそっくりなんですね。なので本作「君たち~」は監督の半生と、小説「失われたものたちの本」が混ざり合って出来上がった。従って100%自伝的な作品とはちょっと言いづらい。

小説「失われたものたちの本」についても軽く説明しましょう。物語は本作と同じく、第二次世界大戦下、主人公は母親を亡くした少年。父親は眞人の父、宮﨑監督のお父様同様、ドイツ軍の暗号解読か、何やら軍に関わる仕事をしている。同じですね。その父親は再婚して、その再婚相手のお腹の中には赤ちゃんがいると。眞人の父の再婚相手・ナツコのお腹にも赤ちゃんがいると。ナツコは眞人の手を自分のお腹に触らせて「弟か妹になる子よ」と言いますが、このセリフは小説からの引用です。

「失われたものたちの本」の主人公は童話、本の世界に迷い込むんですね。「赤ずきん」とか「白雪姫」「眠れる森の美女」の童話の世界、その世界が少年のいた現実世界とリンクしていると。本作「君たち~」も当初は主人公が現実とリンクした童話の世界を旅する、そういう話にしようとしたのかもしれません。というのも、眞人が引っ越して来た母方のお屋敷にお年寄りの女中さんがいるんですね。このお年寄りのアニメーションも「ポニョ」に続いて、最高に気持ち良くて可愛くて、最近の宮﨑作品という感じがします個人的本作の推しです。この女中さんが意味深に7人にいるんですね。これはお分かりの通り「白雪姫」の「7人のこびと」ですね。その他にもナツコさんが体調を崩して寝たきりになって森の中に消える「眠れる森の美女」とか。童話の世界と現実の世界とをリンクさせる『失われたものたちの本』的な描写が微妙に残りつつ、そういう話にはしなかったと。原案の名残りみたいなものがこの映画にも残っています。

こういうストーリーが流動的で、制作しながら変化していくというのも、最初に言った監督のストーリーを決めないという作り方によるものだと思います。重要なのは本作『君たちはどう生きるか』のメインビジュアルにもなっているサギ男ですね。「失われたものたちの本」では主人公が亡くなったはずの母親の声を聞くと、童話の世界に主人公を誘い込む男が出てきます。これがねじくれ男という、主人公の夢の中に現れ、主人公を異世界へと誘う訳です。なぜサギ男が、サギ、アオサギなのか。これはサギ男が母親の声を使って、眞人を「だます」「詐欺」という所からも来ているとも思いますが、「失われたものたちの本」では主人公の部屋にこのねじくれ男が出たと、主人公が「出たよ」と親を呼ぶ、親が部屋に駆けつけると、そこには「カササギ」しかいないという描写になっている。大人から見ると、このねじくれ男が「カササギ」に見えるのか、ファンタジーなので微妙な所ですが、この小説の描写「カササギ」から本作「アオサギ」が眞人を異世界に「おいでおいで」と呼び込む設定になっていると思います。こういった形で監督と過去と、小説「失われたものたちの本」が監督の無意識下でごちゃ混ぜになってできた映画が『君たちはどう生きるか』という事だと思います。

企画の元となった小説「失われたものたちの本」3つ目の原作/原案というのは、言わずもがなタイトルに引用されている吉野源三郎さんの同名原作ですが、これがどんな形で作品に反映されてたのか物語に関わりますので後ほどまとめましょう。『君たちはどう生きるか』の物語はかなりカオスで、宮﨑監督がイメージを先行に、溢れ出るイメージをエンジンにして無意識に絵コンテを走らせている制作の画が浮かびます。言葉にして良いのか疑問を持ちながら話しています。それでも過去作と重ねながら物語まとめていきましょう。ここからは絶対に本編ご鑑賞後にご視聴ください。

!!以下は本編ご鑑賞後にお読みください!!

原案(3) 小説「君たちはどう生きるか」

3つ目の原作となった同名小説「君たちはどう生きるか」は、主人公・眞人が異世界へ冒険に行く、彼の心理的な動機になります。部屋で亡き母親の残した小説「君たちはどう生きるか」を見つけ、読み始める眞人。劇中に登場する挿絵から推察するに小説でいうと1章目「へんな体験」を眞人が読んでいます。この1章目では小説の主人公コペル君がデパートの屋上で街を眺め、この世界には数えきれない人たちが生きていると。「人間で、ほんとに分子みたいなものだね。」と、一つ一つの生命が分子のように無数に、この地球上には存在すると、自分はその一部であると認識するパートです。

子供は皆、そうだと思います。世界が自分中心に回っていると思い込んでいる。しかしそうではないと、自分は自分の人生の主人公であり、無数の他者の人生の脇役でもあると、主人公の認識にコペルニクス的転回が起こる、故にコペル君とあだ名を付けられる小説の主人公。眞人にもコペル君同様の認識の変化が起こるシーンです。ずっと避けていたナツコという圧倒的な他者のために、サギ男の「母親が生きている」というその真相を確かめるべく冒険に出ます。

『となりのトトロ』、『千と千尋の神隠し』。宮﨑作品において日常と異世界の境界は「トンネル」で表現される事が多いです。「トトロ」のメイとは異なり大人の階段を登り始めている眞人はその成長した肉体の大きさ故に、序盤、塔の下の埋められたトンネルを潜ることができませんでしたが、「君たちはどう生きるか」を読み他者のためにと成長しようとしている眞人はようやく森の、木のトンネルを潜って異世界へと進むことができます。

劇中、2回悪夢のシーンが登場します。眞人は夢の中で、眞人に助けを呼ぶ母親を見る。小説を読む前の眞人は母親の死をどうやら自分のせいだと、「助けて助けて」自分を責めているように見えますね。とても観客に強烈なイメージを残す序盤の描写に、眞人が同級生と喧嘩した後、石を自らの頭にぶつけるシーンがあります。ドバドバと出る血が辛いですね、切ないです。なぜ眞人が自分の頭に石をぶつけたのか?同級生と喧嘩したことを隠したかったのか、学校を休みたかったか、いくつか解釈する事ができると思いますが、僕は最初観た時、母親を助けられなかった自分を罰したいと思って石をぶつけているようにも見えました。

というのも小説「失われたものたちの本」もそうなんですね、母親の病気を治すには自分が良い子じゃないといけないと、おまじないで自分の頭をぶつけたりする。先ほどチラッと名前を挙げた同じジャンルの『怪物はささやく』の主人公も母親の病気が治らないのは自分のせいだと、自分を罰しようとします。自我と世界が直接、接続されている幼い少年にはありがちな心理だと思います。悪いことは全部自分がのせいだ。しかしそうではないと世界には無数の他者がいると気付きを経て冒険に向かう眞人。母親の死という心理的トラウマは、自分でつけた頭の傷跡として肉体に刻まれる。ここからの眞人の冒険というのは、この心と肉体の傷を癒そうとするものになっていきます。

本作『君たちはどう生きるか』がほとんど『千と千尋の神隠し』と同じ「行って帰ってくる」行きて帰し物語という同じ物語構造を取りながら、ちょっと主人公に感情移入しづらい、分かりづらいのは、主人公の成長が精神的な、心理的なものに依存しているからだと思いました。『千と千尋の神隠し』みたいに最初と最後でガラッと顔つきが変わる、成長が大きく可視化されない。本作の眞人は強がっているんですよね。大人の前では感情を押し殺そうとする。あまり喋らない。

宮﨑駿監督はまさにご自身の幼少期が「本心を押し殺して『いい子』であろうとした」と仰っている。前作『風立ちぬ』と同様ですね。主人公が何を考えているのか捉えづらい。こういったアドベンチャー、冒険活劇という広く観客を迎えられるジャンルの作品なのに心理的成長で、内向きな成長で、掴みづらいというのは大いにあったのかと思います。僕は逆に、眞人が無理して感情を押し殺している、その表情に涙腺緩みましたが。主人公・眞人がどう傷に向き合っていくのか。この傷を癒すのは異世界で出会う3人の母親というのが実に宮﨑作品的と言えると思います。

対比される2つの「火」と母性

『風の谷のナウシカ』のナウシカは「オデュッセイア」において傷だらけのオデュッセウスを癒したナウシカから取られました。そのナウシカは、傷ついた人々を受け入れるためにバストが強調して描写されている。宮﨑作品において傷だらけの人物を癒すのは、そういった母親的、母性を持った女性であるというがルールとして一貫してあります。『千と千尋の神隠し』において傷だらけのハクを抱きしめる千尋、『ハウルの動く城』において傷だらけ、血まみれのハウルを癒すのは、劇中で母親のフリをする母親的なソフィー。本作『君たちはどう生きるか』も同様のモチーフを繰り返していて、序盤で観客に強烈な印象を与える血まみれの眞人を癒していくのは、冒険の過程で出会う母親たち。キリコさん。ヒミ。ナツコもギリギリそこに含めて良いかもしれません。傷を抱えた男性を癒す母的女性。これは大いに母親のいない過程で幼少期を過ごした宮﨑監督ご自身の過去が関わっているというのが一般的な解釈で、この古臭い母性信仰的なモチーフを批判する方のお気持ちも分かります。

2つ目のキーワードとして「火と母性」と冒頭で申し上げました。本作の母親たちが「火」と密接に関係しているというのも「宮﨑作品あるある早く言いたい」状態ですね。宮﨑作品において火をコントロールできるのは「女性」というのはお決まりで『もののけ姫』の「たたら」エボシとか、それこそ『ハウルの動く城』で火の悪魔を契約無しでコントロールできてしまうソフィーでもいいでしょう。もう一つ、宮﨑作品において「火が二種類ある」と綺麗な火と醜い火。これもお決まりのルールです。本作「君たち~」でもこれが対比されていきます。

綺麗な火というのは生活に最低限必要な「火」。『風の谷のナウシカ』における「わしらは最低限の火しか使わん」みたいなセリフがありましたね。一方、醜い火は兵器、核爆弾を想起する巨神兵の火。『ハウルの動く城』のカルシファーのセリフが分かりやすいですね。「おいら火薬の火は嫌いだよ。やつらには礼儀がないからね」言ってましたね。明確に生活に必要な「火」と兵器の「火」が対比されて描かれてきたのが宮﨑作品です。

本作「君たち~」では冒頭、圧巻のアニメーション表現、恐怖を超えてとてつもない群集アニメーション描写でした、凄かったですね。その冒頭で観客にトラウマを植え付ける空襲の火、これはまさしくカルシファーの言う通り「礼儀のない火薬の火」母親の死の記憶として眞人の心に刻み込まれています。一方、「きれいな火だねー」というのは、キリコさんが死者を弔う時に使う「火」そして生命を誕生させる料理に使う窯の「火」。ヒミがコントロールする「火」。こういった形で本作「君たち~」の主人公・眞人が傷を癒す物語というのは、「醜い火」で追った傷を、「きれいな火」で、「きれいな火」をコントロールする母性が癒していく、最終的にはその「醜い火」で負った傷を「悪くない」と「素敵」と肯定していく、そんな冒険と言えると思います。その過程を整理していきます。

強くなる「死」の匂い

対比される2つの「火」と母性、「火」で負った傷を「火」で癒す眞人の物語。やはり宮﨑アニメあるある、下から上に上がっていきます。宮﨑作品は常に下から上に行く上下の構造というのは『長ぐつをはいたネコ』から、もう今更改めて言う必要はないですね。だから本当に本作『君たちはどう生きるか』は宮﨑作品あるある状態ですね。これを作家性と言うのか、既視感、寄せ集めと言うのかは人によってお任せしますが、監督も多分、意識されていない。やっぱりストーリーを決めずに物語を作っていくと、どうしても過去作の集積になってしまうと思うんです。ただ無意識だから指摘しても意味がないということでもなくて、観客はその無意識の共通点と同時に差異をしっかり指摘して、個人個人それぞれの感想にすべきだと思います。

お話逸れました。下から上に。下から上に。下から上に。一番下は「死」でしたね。めっちゃ「死」ですね。『ポニョ~』あたりですかね。『千と千尋の神隠し』の電車もそれに被ってきますか。とにかく宮﨑作品の後期は「死」の匂いが強いですね。本作「君たち~」もそうでした。宮﨑監督は『ポニョ』の時のインタビューでこう仰っていますね。「否応なく死の問題を感じなきゃいけないところに来てますから。(中略)向こう側にいる人間がどんどん増えていくなあって感じでね(笑)」。お年を召して周りの人がどんどんとお亡くなりになって、映画における死の占有面積が増えたと。

『ポニョ』では「海」が死の世界としてデイサービスひまわりの家のお年寄りたちが死の世界で、車椅子から降りて生き生きとしている描写には驚かされました。本作の一番下の世界も「死」が濃厚で。劇中のセリフでは「地獄」なんて表現もされます。『紅の豚』と『風立ちぬ』の飛行機の墓場。それこそ『ポニョ』に出てきた「船の墓場」のような「帆船の墓場」も出てきました。そんな死の世界を、『未来少年コナン』ばりに船をコントロールして、ナウシカばりに「風を捕まえて」漁をするのがキリコさん。

またまた興味深いのは、ペリカンに「地獄」とまで言わせた生命が存在しない無い「死」の世界である最下層に、最も汚れのない生命の大元がいるというんですね。これがワラワラというあの「povo」のキャラクターみたいな、多分、ポニョポニョしているからポニョみたいにワラワラ集まっているからワラワラなんでしょうね。ピクサーアニメの『ソウルフル・ワールド』を思い出す生命の元がこのワラワラということで、この一番下に汚れのないものがいるというのは『風の谷のナウシカ』で腐海の一番下が浄化されている描写だったり、『千と千尋の神隠し』で油屋の一番下に、油屋全体を動かしているボイラー室があってススワタリたちがいるというのにも重なると思います。『ポニョ』においてデイサービスと幼稚園が隣接しているというのにも繋がります。

最も死に近い所に、最も生に近い存在がいるという実に宮﨑作品的な世界観だなと思いました。映画冒頭でナツコのお腹に手を当てて、明かに新しく生まれる弟か妹の存在に嫌悪感を示す眞人でしたが、ワラワラが生命になる美しい瞬間を目撃して、生命の尊さに気付く。眞人の成長物語に非常に関わっているワラワラでした。

群集アニメ表現

『ポニョ』と言えば、ポニョの妹たちとか、津波とか。『崖の上のポニョ』で群集アニメーション、集合体アニメーションの極地を見せた宮﨑監督でしたが、本作はこれがさらに鋭さを増して極まっていて、とんでもなかったですね。キリコが巨大な魚を解体した時の内臓グチャグチャブニョブニョとかは序の口で。劇中、四回ですかね、眞人が集合体、群れに飲み込まれるという描写が繰り返されます。序盤でサギ男が呼んだコイの気持ち悪いこと、カエルに群がられる眞人。

そういった群れに飲み込まれる眞人を助けるのは必ず母親、母親的なキャラクターというのも本作では反復されます。カエルから眞人を助けるのはナツコ。ペリカンの群れから眞人を助けるキリコ。インコの群れ、産屋にあった人形から眞人を助けるヒミ。本作『君たちはどう生きるか』で何が凄かった?と聞かれたら、まぁこの群れのアニメーションが凄かったと答えるかもしれません。それほど強烈に印象に残りました。この群れというのも、先ほどあげた小説「君たちはどう生きるか」の1章「生命は分子みたいに無数に存在している」と繋がるんでしょうね。自分は無数に存在する生命の一つであると。その群れに飲み込まれながら、それでも前に、上に進んでいくという眞人の冒険でした。

サギ男について

とても僕が観ていて混乱したのはサギ男のキャラクター像でした。皆さん混乱されなかったですかね。正直、サギ男の動機とか、何者かよく分からないんですよ。どうやらこの異世界を作ったお殿様、後に大叔父様と分かる、彼に仕えているというのは分かるんですが。ただ本当に上の世界に導くだけの存在がサギ男なんですね。これが掴みづらい。キャラクターデザインの気持ち悪・可愛い感じは好きなんですが、キャラ自体に余り魅力を感じない。これ小説「失われたものたちの本」のサギ男のモデル元になったであろうねじくれ男は、明確に悪い奴で動機も分かりやすいです。ただ、このねじくれ男は小説において「トリックスター」と表現されます。作劇において事態を混乱させたり、逆に物語を展開していくキャラクターですね。小説では、このねじくれ男を「主人公を『物語の主人公』にするキャラ」とまで言うメタ的な表現がされています。

本作『君たちはどう生きるか』のサギ男は、この小説にあった本来の動機を無くして、「トリックスター」という要素だけを残したキャラクターになっていますね。物語が停滞したら進めたり、逆に主人公がピンチになったら脈絡もなく急に助けたり、物語の上位に存在するメタ的なキャラクターのようで若干、観ていて混乱します。僕は凄く思い出したのは、宮﨑駿監督も影響を公言されている『やぶにらみの暴君』『王と鳥』という作品の「鳥」ですね。この『やぶにらみの暴君』は「カリオストロ」を筆頭にあらゆる宮﨑作品の元ネタで、特に下から上に行く、上下の構造はこの作品から監督、持ってきていますが、この「鳥」は、主人公が「鳥さん鳥さん」と呼ぶと、どこからともなく現れ主人公を助ける、ちょっとご都合主義的なそういうキャラクターなんですね。鳥だからじゃないですが、サギ男はこの『やぶにらみの暴君』の「鳥」を思い出しました。その他、『やぶにらみの暴君』『王と鳥』タイトル通り、独裁的な王様が登場しますが、本作「君たち~」でもインコ大王を君主とするインコたちが出てきたりと、類似点を見出すことができると思います。

主人公の成長

『やぶにらみの暴君』的に下から上に行く眞人の冒険ですが、中間地点。まぁ驚かされたアニメーション表現。ナツコさんの表情でしたね。産屋で赤ちゃんを産もうとしていると、ヒミに止められてもそれでも助けるんだと、石に拒まれる中、ナツコを助けに行こうとする、この辺りからナツコを受け入れようとする眞人の成長が見えます。ここでとてつも無いアニメーション。危険な異世界に眞人が来ていると知ったナツコが全力で眞人を元の世界に返そうとする。「大嫌いだ!出ていけ!」。序盤のあの美しいお顔とはかけ離れた一心不乱な表情。これは凄かったですね。間違いなく母親の表情ですね。子供が危険な所に行っているときに止める母の表情。ナツコのその表情に母性を感じたのか、ようやく「ナツコ母さん」と母親を受け入れようとする眞人。眞人の母親との関係性の物語はここでピークを迎えます。

ラストについて

下から上へとようやくインコたちが「天国」と表現する大叔父様のいる頂上に辿り着く。『千と千尋の神隠し』でも頂上は「天」でした。頂上にいる大叔父様は異世界を作り直すクリエイターの立場を眞人に継承しようとする。小説「失われたものたちの本」でも、国王が主人公に王位を継承しようとする。小説と同じ展開。でもそれを拒否して、辛くて悲しい現実に立ち向かおうとする。素直に見れば本作『君たちはどう生きるか』は非常に分かりやすい下から上に行って、主人公が傷を癒す、ヒミ、少女時代の母親と出会って、そのヒミによって「火も悪くない」と眞人がトラウマとして抱えていた「醜い火」によって生まれた傷を癒やされ、現実を肯定して元の世界に戻る冒険譚なんですが、厄介で観客を混乱させるのは、眞人と大叔父様との会話が観客に深掘りをしてと言わんばかりで抽象的で分かりづらい、と。困りますね。

この終盤の眞人と大叔父様の会話を整理するキーワードとして。冒頭で「フェデリコ・フェリーニ」という監督の名前を挙げました。本作は「映画作りそのものがストーリーになっているタイプの映画」とも見れるんですね。ここで二つの証言を引用します。どちらもプロデューサーの鈴木敏夫さんのご発言。ラジオ「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」にて、鈴木さんは本作を見て「サギ男のモチーフが自分なんじゃないか」と思ったと。最初は敵対しながらも「仲良くしなさい」とキリコに言われ、結局は友達になる眞人とサギ男の関係性に宮﨑監督とご自身を重ねたと。よく映画制作中に絵コンテを作っている宮﨑監督の元に行って、進捗状況を聞いたり、時に制作を急かしたり、時に映画作りの相談をしたりする宮﨑監督と鈴木敏夫さんの関係性は色々なインタビューで語られています。眞人の元に行って眞人を異次元の、映画の世界に導く。「風」も宮﨑作品で重要なモチーフですが、本作において主人公に風を吹かせるのは、「風を立たせるのは」このサギ男なんですね。プロデューサーなんですね。また時にご都合主義的に物語を展開していく、このトリックスターとしてのサギ男はプロデューサーそのものじゃないかと。そう見ると本作「君たち~」は、映画監督たる眞人、宮﨑監督と、プロデューサーたるサギ男、鈴木さんが二人三脚で時に他の人の手も借りながら、冒険という物語を作っていく「映画作りそのもの」についての映画なのではないかと。

もっと面白い証言二つは、やはりラジオ」にて鈴木さんのご発言。ある日、宮﨑監督に三本の映画を観せたと。それがキーワードにしたフェデリコ・フェリーニ監督の3作品。その内、二作が『8 1/2』と『魂のジュリエッタ』だったそうです。宮﨑監督はこの作品を瞬きせずに観たと。観終わった後、鈴木さんにこう言った。「これ誰?俺と同じ事考えている奴がいる」。監督に「俺と同じ考え」と言わしめた『8 1/2』はもう弊チャンネル頻出の作品で、またお前言っているよと言われてしまうかもしれませんが、仕方ないですね。『8 1/2』は映画監督を主人公にした作品で、映画作りそのものが物語になっている映画です。実際、監督のフェリーニが映画制作に困っていて、どうしても映画が作れないと、どうしよう…じゃあこの現実の映画作りの苦悩と混沌、それ自体を映画にしてしまえばいいんだと。「映画作りそのものがストーリーになっている映画」なんですね。『魂のジュリエッタ』はこの『8 1/2』の女性版と言えて、やはり監督が現実の奥様、女性関係性をそのまま物語にした作品です。

フェリーニの発明は、映画作りの苦悩、混沌とした現実、その混沌それ自体をフィルムに刻んだという点です。『8 1/2』という変なタイトルはフェリーニが今まで作った単独監督作7本と共同監督作を1本、共同監督作を1/2本とカウントして、それらを足して、8と1/2本目の映画がこの作品という意味です。「同じ考え」と言っている以上、本作の大叔父様、異次元の世界を作ったクリエイターは宮﨑駿監督ご自身でしょう。ラストでこの世界が崩壊しますが、その時、世界は積み木、ブロック、つまりコマによって出来上がった映画、アニメーションそれ自体だとバラしてしまいます。

少し分からない所もあります。監督たる大叔父様は世界から悪意のない13個の積み木を用意したと言います。この13という数字が何を意味しているか?十三仏とか、忌み数とか、宗教的な意味合いも思い浮かびますし、『8 1/2』的なカウントをすれば『天空の城ラピュタ』以降のジブリ作品で宮﨑監督のプロデュース作以外、脚本作品を入れて関わった長編映画が本作で丁度、13本目。もしくは『風の谷のナウシカ』もジブリ作品としてカウントして、監督が『君たちはどう生きるか』までに作った長編映画が13本とか?でも短編はカウントしないの?とかこれはトンデモ解釈です。

映画の本質、感動とは逸れたトンデモ解釈を続けると、劇中、眞人の名前が漢字で二回登場します。ちょっとこれ僕、気になったんですね。わざわざ漢字が出て「眞人」って「真人」じゃなくて「眞人」なんだ。本名は「牧 眞人」ですが、これ読み方を変えると「シンジン」「新人」と読めるなとか。トンデモ解釈ですねぇ。今まで作った13個の積み木、14個目に当たる本作「君たち~」は『アーヤと魔女』で宮﨑駿監督の表記が「﨑」になって初めての新人長編監督映画。よく宮﨑監督は「はやお」を平仮名にしたり、表記が変わるので気にすることはないですが、新しい表記として一本目を作った、自身の少年期をさらけ出して、映画作りそれ自体の混沌さまで露わにした、さぁここから再出発だと。こんなトンデモ解釈もできます。繰り返しますが、これは全く意味の無い、言葉遊び。映画の感動の本質とはずれる監督のお言葉を借りれば「みっともない」行為です。聞き逃してください。

「おわり」はない

宮﨑駿監督なのか大叔父様が眞人に継承を促す。眞人なら13個の積み木に一個足して、この世界のバランスを保てる。ここで眞人は頭の中でバランスの保った14個の積み木を想像します。眞人には確かにクリエイターとしての血、才能があったんでしょう。ただ継承を拒否しますね。自分の傷、悪意、辛いと分かっている現実に立ち向かおうとする。感動的ですね。大叔父様の言う「豊かで平和で美しい世界」は、漫画版「風の谷のナウシカ」における「庭」と言っても良いでしょう。高畑勲監督の『かぐや姫の物語』における汚れも罪もない浄化された月の世界です。しかしナウシカは、その汚れのある矛盾に満ちた現実の世界を生きてこそ人間。悪意も矛盾も抱えて人間は生きるんだ「生きねば」と。

現実世界に戻れば、もうインコの糞だらけになります。汚れも沢山、体に受けます。眞人は14本目の積み木を現実世界に持ち帰って、この世界を生きていこうとすると。宮﨑駿監督、俺はこう生きた。13個の積み木を積み上げた。上手くはいかなかった。確かに自然、異種との共存を訴え続けた監督ですが、現実はインコの国のように分断、分極化が広がるばかりです。14本目の新しい一本は現実世界で作り上げろと。

小説「君たちはどう生きるか」でも主人公・コペル君は産み出す人間になると、宣言をして終えます。小説「失われたものたちの本」でも現実世界に帰ってきた主人公は「失われたものたちの本」という小説を書きます。眞人も14本目の積み木、新しい作品を作るのか、我々も眞人に続き、作らなければいけない。本作は観客にエールを送っているようですし。眞人は宮﨑駿監督の半生が重ねられた監督自身、監督の再出発としても見ても良いでしょう。混沌としていて、イメージが先行していてストーリーも分かりづらい映画だったと思います。ただ同時に非常に力強いメッセージを感じる一本でした。

僕は何か悲しくもなりましたね。静かに後継者へ継承しようとする本作のラストが「映画の一つの時代が終わってしまうんだなぁ」としみじみと僕は悲しさも感じました。本作『君たちはどう生きるか』はエンドロールが終わってジブリ作品お決まりの「おわり」がない事ですね。これは我々の人生は映画が終わっても続くから「おわり」はないんだと。もしくは、宮﨑監督、映画を作りながら、次の企画を鈴木さんに提出したらしいですね。俺も「おわり」がないんだよということかもしれません。僕は眞人みたいにクリエイターとしての才能はないですが、頑張って生きてみようと思います。皆さんも無理せずに頑張りましょう。今週の新作は『君たちはどう生きるか』でした。最後までご視聴誠にありがとうございました。また次の新作映画でお会いしましょう。さようなら。

【作品情報】
『君たちはどう生きるか』
劇場公開日:2023年7月14日(金)
© 2023 Studio Ghibli


茶一郎
最新映画を中心に映画の感想・解説動画をYouTubeに投稿している映画レビュアー

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