“嘘つき”ラッパーたち:イメージと実像の耐えがたき落差

Photo: Barry King/Liaison

ヒップホップやR&Bなどを専門に扱う雑誌『ブラック・ミュージック・リヴュー』改めウェブサイト『bmr』を経て、現在は音楽・映画・ドラマ評論/編集/トークイベントなど幅広く活躍されている丸屋九兵衛さんの連載コラム「丸屋九兵衛は常に借りを返す」の第39回。

今回は今年8月11日で50周年を迎えるヒップホップについて開催されている5つのオンラインイベントから、抜粋を3回に分けてお届けします。

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わたしは長らく音楽雑誌の編集として働く中で、インタビューに同行したり、自分でアーティストに取材したりを経験してきた。そうした年月の中で学んだのは、アーティストの発言やレコード会社の資料には、ハッタリや嘘が多々あるということだ。

わかりやすくジョン・シナを例にとろう。元WWE、現在は映画『ワイルド・スピード』シリーズやドラマ『ピースメイカー』で活躍する俳優となったジョン・シナだが、かつては「WWEのエミネム」的なラップ自慢のレスラーだった。その彼がついにラップ・アルバムをリリースした2005年、わたしは取材に同行する機会があった。

今も印象深いのは、インタビュアーが「資料によるとヴァニラ・アイスがロールモデルだそうですね」と問うたところ、ジョン・シナが苦笑したこと。つまり、「ロールモデル=ヴァニラ・アイス」というのはおそらくWWE側が考案した設定であり、ジョン・シナ本人はより真剣な——ヴァニラ・アイスを全否定するつもりはないが——ラッパーを志向するタイプだったのではないか、と思う。

さて、プロレスもプロレスだが、ヒップホップもヒップホップ。イメージ作りのための神話が横行する世界であり、実像との乖離ぶりは笑って楽しめるレヴェルに到達していることがある。それらの例をいくつか紹介しよう。

アイス・キューブ

それは曲名なのかアルバム名なのか映画のタイトルなのか。とにかく、“Straight Outta Compton”はヒップホップ史上に刻まれた名文句である。

そこでN.W.A.の先頭打者として「こちとらコンプトン直送!」とラップするのが、面構えも声もゴツいアイス・キューブ。もちろん西海岸を代表する、それどころかヒップホップの歴史でも有数の名ラッパーだ。

が、彼の出身地はコンプトンではない!

キューブはサウスセントラル出身。この地域の定義は明確なようでいて実は曖昧だが、とにかくロサンゼルス市内の一地区であって、それはコンプトンではない。そもそもそコンプトンは、ロサンゼルス市の南に位置する別の市である。

結論。この人のラップは最初から嘘であり、それを考えると後に役者として大成するのも理解できるのだ。

ギャングスタ・ラップの基盤を作ったグループの基盤を作った曲の第一声が真っ赤な嘘であるという事実。それが、このジャンルにまま見られる「イメージと実態の落差」を象徴しているかのように思える……。

イージー・E

ここで思い出すのがサウス・セントラル・カーテルの言葉だ。

曰く「N.W.A.は確かにギャングスタ・ラップ・グループではあったが、ギャングスタ・グループではなかった」。実際のところ、N.W.A.のクラシック・ラインナップである5人のうち、ギャングスタ経験があるのはイージー・EとMC・レンの2人のみである。

さて、イージー・E。「クラックで荒稼ぎしていたドラッグディーラーだが、同業のイトコが殺されるに及んで“この仕事では長生きできんな”と考えていたところに、ドレーが頼み事をしてきたので、ヒップホップ業界に参入してみることにした」というのが定説だ。

しかし! ここで、ルースレス・レコーズのエクゼクティヴでN.W.A.のマネージャーだったジェリー・ヘラーの言葉を引用してみよう。

「ストリートを生き抜くにはマスクが必要だ。誰しも裸では生きられず、誰もが役割を持たねばならない。サグなり、プレイヤなり、アスリートなり、ギャングスタなり、ドープマン(ドラッグディーラー)なり。さもなければ君に残された役割は一つしかない。”犠牲者”だ」

寸鉄人を刺すような断言ぶりが美しい名文だが、ヘラーはこうも言っている。

「イージーがマリファナを売っているところは見たことがあるが、コカインを扱ってるのは見たことがない。ドラッグ・ディーラーというのはイージーが自分の守るために自分で作った鎧のようなものだ。彼みたいな小柄な男がコンプトンのストリートで生き抜くには、そういう鎧をまとうしかなかったのだ」

さらに、イージーに関しては「両親のガレージでデモテープを作っていた」という説まである。あれっ、「音楽そのものには興味がない社長が、やむなくラップをするハメになった」伝説はどこへ……

ブーヤー・トライブ

イージー・EにしろMC・レンにしろ、青組ことクリップスの構成員である。このクリップスとL.A.あたりのストリートを二分する敵組織が赤組ことブラッズ。で、ブラッズといえばもちろんブーヤー・トライブだ。そんな彼らのギャングスタぶりにも、多少の疑問がないわけではない。

若い頃の彼らはL.A.のストリートで問題を起こしすぎたため、イトコの大相撲力士だった小錦を頼って来日、大阪に住んでいたことがある。その時代を知っているという関西人曰く、「あの頃のブーヤーは黒づくめの服装だったのに、シュグ・ナイトと付き合いだしてから赤い服を着るようになった」。

ええっ、「シュグと交われば赤くなる?」 それが事実だとすれば、ブーヤー・トライブを「ブラッズの中のブラッズ」と信じていた向きには(わたしにも)衝撃ではないか。

スタジオ・ギャングスタの罪

それにしても。なぜヒップホップだけが、リリック通り、歌詞に書いてある通りの人生を求められるのか? ロックであれポップであれ、歌ってる人がその歌詞の通りに生きてると誰が思う? R&Bですら、他人語りをやってることが明白な曲がたくさんある。なのにラップではなぜか、詞で描写されていることとラッパー自身の生き方がイコールでなければならない……というような不可解な圧力が存在する。

一方、スタジオ・ギャングスタの逆を行く「イメージはクリーンなのに実は怖い」と噂されるのがMCハマー。彼を笑いのめしたことがあるレッドマンは、何かの機会にMCハマーに詰め寄られ、「お前、なめとったらあかんど、わりゃ〜」くらいのことを言われたらしい。その迫力に、レッドマンは思わず「イエッサー!」と答えたという。

ゲトー・ボーイズのスカーフェイスは「ラッパーという存在は、あくまでストーリーテラー。だから、リリックの内容を、語り手であるラッパーの生き方とか経験してきた事実だと考えるべきではない」ということをはっきり断言していて、その潔い言い切りぶりには好感が持てる。

トゥー・ショートの場合、そのイメージはギャングスタではなくあくまでもピンプ。1992年のアルバム『Shorty the Pimp』のジャケットなぞは、ストリートに並ぶ売春業のお姉様方の前で仕切る風情のトゥー・ショートが立っている写真で「働くピンプ」の描写の最たるもの。だが、当のトゥー・ショートは「ピンプというのはあくまで自分が演じているキャラクターであって、自分自身がピンプの経験があるわけでは全くない」と言い切っていた。スタジオ・ギャングスタ……ではなく「スタジオピンプ」だが、それがストーリーテリングの設定であり実体験ではない、と明言することは美しいと思う。

しかし、出身地や在住地、さらには出自を偽ったり(中流家庭の出なのに「ゲットー出身」を謳ったり)すると、それが発覚した時のしっぺ返しはなかなかに過酷なのだ……。

Written By 丸屋九兵衛

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