小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=31

「傷を負わせた以上、彼も何とか言ってくるでしょう。物事は荒立ててはいけません。今日はこのままにして相手の出方次第でこちらも考えましょう」
 田倉はそう言って、いらだっている家族や周囲の人びとをなだめた。
 その夜遅く、ルーベンス監督は、以前この耕地で働いたことのある岡野太一を仲裁兼通訳として田倉の家にやってきた。
「刃傷沙汰とは穏やかではありまへんな」
 田倉は高飛車に言い、昼のコロノたちの怒りを事細かに伝えた。
「そこなんです、よく聞いてください。ルーベンスは八代さんと口論になったが、傷つける意志など毛頭なかったと、言っとります」
「それがどうして」
「八代さんは日頃から少し一徹なところがあったようで、ことに働き手が多いという自負もあって、いつも監督の指図に何彼と逆らっていたようですね。監督としては命令に従わせないと役目を果たせないので、どうしても声高になるんです。それが八代さんの気に触ったようで」
「それは解りますが、斬りつけるということは尋常ではありませんな」
「その所なんです。八代さんの奥さんが主人を前に押しやったので、ロバは驚いて横に身をかわした。不意をつかれたルーベンスは落馬すまいと手綱を絞ったとき、右手のファッコンが偶然に八代さんの頭に触れたというんです。不慮の事故で、彼はロバから降りて詫びようとしたが、家族のものが激怒して近寄せない。どの程度の負傷だったのか、知ることもできなかった、とルーベンスは言って私を訪ねてきたんです」
 岡野は落着いていた。四〇がらみの大男で頭を角刈りにした誠実そうな男だ。先ほどから黙って腰掛けていたルーベンスは岡野を通じて、しきりに頼んでいた。
「本当に傷を負っているのなら、医薬代は支払うからかけあってもらいたい」
「それは監督が直接行かれたらいいでしょう」
「わしが行っても取り合ってくれません。それで日頃から懇意の田倉にお願いしているわけで」
 と、ルーベンスは言い、岡野もなるべく穏便に解決できるようにと、頭を下げた。

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