「黙秘します」無罪主張をやめた痴漢事件の“容疑者” 「自白させたいわけでは…」ある検察官の本音

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新型コロナの行動制限解除とともに、痴漢の検挙件数が増加傾向にあります。警察庁が今年5月に公表した調査結果によれば、2022年中の痴漢の検挙件数は2233件と、3年ぶりに2000件台となりました(2019年は2789件、2020年は1915件、2021年は1931件)。

痴漢で逮捕された後、容疑者(法律用語では「被疑者」)にはどのようなことが待ち受けているのでしょうか。一方で、痴漢をめぐる冤罪事件が話題になることもありますが、その背景・課題として指摘される取り調べや捜査では、どのようなことが行われているのでしょうか。この記事では、被害者、弁護士、検察官それぞれの視点から「小説」の形式で見ていきます。

第5回目では、被疑者・大林に「黙秘権」を行使された検察官・江藤恭介が、黙秘権の重要性を理解しながらも、「被疑者の言い分をつぶしたり、自白を迫ったりしたいわけではない」ともどかしさを感じます。(#6に続く)

※この記事は実際に弁護士として活躍する筆者による書籍『痴漢を弁護する理由』(日本評論社)より一部抜粋・構成。

【#4】「僕はやってません」痴漢容疑を否認するも…男が「線路」に飛び降りて“遁走”を図ったワケ

おびえきった表情

午前11時30分。

検察官室のドアが開く。ジャラリと、金属の揺れる音。3人の足音が響く。

2名の警察官に促され、手錠で両手をつながれた被疑者が入ってくる。腰には縄が巻かれ、その端を警察官が手にしている。

こんな物々しい風景も、僕にとってはもう慣れたものだ。記録をパラパラと見ていた視線を上げ、被疑者の顔を見る。年齢以上に幼そうな顔だ。おびえきったように見える表情。

すらっとして、身長は、180センチほどある僕と同じか、ちょっと低いくらいだろう。もともと色白であろうその肌は、その表情もあいまって余計に青白く見える。警察署の留置施設で借りたに違いないグレーのスウェット上下は、被疑者が着の身着のまま逮捕されたことを物語っている。その目線は定まらず、震えているようにも見えた。

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「そこに座ってください」

丁寧な口調で被疑者に話しかけ、自分のデスクの前に置かれたパイプ椅子に座すよう促す。僕が普段執務をしているこの検察官室は、検察官が被疑者を取り調べるための取調室でもあるのだ。おびえているような被疑者に向かって、できるだけ丁寧に、こう切り出す。

「大林さん、今日はあなたの話を聞く手続です。私は、検察官です。検察官は、警察とは別の組織です。警察官とは立場が違いますから、警察で言ったことをそのまま話さなければいけないわけではありません。言いたいことは何でも話してくださいね」

そういって、大林の表情を見やる。おびえた表情は変わらない。おそらく、逮捕されて検察庁に来ることなんて、人生で初めてだろう。大林に言ったことは嘘ではない。検察と警察はどちらも犯罪の捜査機関だがあくまで別の組織だ。警察官は検察官の指示の下で捜査をする。そして、起訴するかどうかは、あくまで検察官が決める。被疑者が、警察に話したこととは別のことを、検察官に話すというのもよくあることだ。

「あなたには黙秘権がありますので、言いたくないことは言わなくてもかまいません。それから、あなたには弁護人を選ぶ権利があって……」

続けて、淡々と説明していく。被疑者を取り調べるときには、黙秘権や弁護人選任権の告知をしなければならないことになっているのだ。ただ、目の前の大林の様子は、一言でいえば、うわの空という感じだろうか。僕の説明にうなづくこともなく、僕の顔でもない、何か空中を見ながら視線をさまよわせているだけだ。

そして僕は、大林に、今回疑われている内容を告げる。この取調べは、疑われている事実について、被疑者の弁解を聞くことが最も重要な目的である。大林が、被害者に対して電車の中で強制わいせつを行ったことで疑いをかけられていることを告げ、それに対する弁解を聞くのだ。

「今読み上げた事実で、どこか違っているところはありますか。何か言っておきたいことがありますか?」

大林の目を見て、尋ねる。

「…………」

沈黙。5秒。10秒。おびえた表情は、今は少しこわばっているようにも見える。口を真一文字に結んで、今度はまっすぐに僕のほうを見ている。

15秒、20秒。たまらず、さらに尋ねてみる。

「特にないですか?」

「…………」

答えはない。仕方なく、警察から送られてきた記録をパラパラと見る。被疑者が警察官に対して話した内容をまとめた調書には、「私はその電車に乗っていましたが、わいせつ行為を行っていません」とある。

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「電車に乗っていたことは間違いないんですかね」

「…………」

「警察官に対しては、わいせつ行為を否定していたようですけど、それでいいですか」

「…………」

「自分がやっていないとも話せませんか?」

「…………」

大林からの返答はない。重い空気が流れる。

10秒、20秒。僕がさらに質問を続けようと思った矢先、重い沈黙を破ったのは意外にも大林のほうだった。

「あの……えっと……」

震えた声で、言葉を絞り出そうとする大林。僕は、黙って次の言葉を待った。

「えっと……黙秘、します」

自白を迫りたいわけではない

黙秘権の行使。

被疑者・被告人の憲法上の権利だ。被疑者は、取調べに対して終始黙っていることができると憲法や刑事訴訟法で権利として認められている。質問に答えなくてもいいのだ。被疑者を刑事裁判にかけるためには、検察官が、証拠によって被疑者の有罪を証明できなければならない。捜査機関が証拠を集める責任がある。被疑者側は、別に自分で無罪の弁明をしなくてもいい。無罪を証明する必要はもちろんない。そういう被疑者に、供述を強制することはできない。刑事手続の構造上、黙秘権というのは被疑者にとってとても重要な権利なのだ。

そのことは、僕自身もよくわかっていた。憲法や刑事訴訟法の勉強をして司法試験に合格した。司法試験に合格すれば、弁護士になる者も検察官になる者も裁判官になる者も司法研修所で一堂に会して1年ほどの研修を受ける。この研修は「司法修習」というが、司法修習でも、刑事弁護教官がことあるごとに黙秘権の重要性を語っていた。被疑者や被告人は、国家という大きな権力から責任を追及される弱い立場。彼らには絶対的な防御の権利が必要……そんなこと、頭では十分わかっているし、その重要性もいくらでも説明できる。

しかし。目の前の被疑者が黙秘権を行使するとき、とてももどかしい気持ちになる。もちろん黙秘する被疑者を取り調べるのは今回が初めてではない。最近は、黙秘権を行使する被疑者が増えてきたような気がする。

自分は確かに被疑者を取り調べる立場だ。でも、別に被疑者の言い分をつぶしたり、自白を迫ったりしたいわけではない。被疑者の言い分をよく聞いて、きちんと真実を見極めたいのだ。被疑者に言い分があれば、その言い分が正しいのかどうか、きちんと捜査によって見極めようとするし、実際、被疑者の言い分が正しいかもしれないと思って、不起訴、つまり刑事裁判にはかけないという判断をしたこともある。

でも、話してくれなければ、何の手がかりもないのだ。別にやってないならやってないでいい。まずは話してほしい。憲法や法律で保障された権利なのはわかる。でも、検察官としてきちんと真実を見極めるための正しい仕事をしたい。

そんな気持ちで、気づいたら僕は大きなため息をついていた。

(第6回目に続く)

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