「セメント王」浅野総一郎物語⑤ 渋沢栄一との出会いは

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・浅野総一郎、最大の支援者は「日本の資本主義の父」渋沢栄一。

・自分と会うより仕事が大事という浅野に渋沢は興味を持った。

・渋沢は浅野に「上に立っても、自ら行動することが大事」と話した。

富山県氷見市出身の浅野総一郎は、日本の近代化の礎を築いた人物です。セメントを始め、石炭、海運、造船など幅広く手掛け、一代で「浅野財閥」を築きました。

奔放で、突進する男、浅野総一郎。エネルギッシュに仕事しますが、歴史上の重要な人物が浅野の後ろ盾になりました。

最大の支援者は、渋沢栄一でした。「日本の資本主義の父」とも言われた渋沢は、浅野に対して、日本が近代国家に向かう際のエンジン役として期待をかけました。総一郎の道を次々切り開いてくれました。その「友情」は生涯、続きました。

2人はいつ、どのように知り合ったのか。明治9年春でした。浅野は29歳、渋沢は37歳でした。

当時、浅野は大塚屋という石炭商でした。富山県氷見市出身ですが、夜逃げで上京したため、偽名で生活していました。一方、渋沢は王子製紙を経営していました。浅野は、王子製紙に石炭を納入していたのです。

王子製紙は東京の王子村にあり、荒川に面していました。石炭を積んだ船は、荒川を航行し、製紙会社の近くの船着き場に到着。

「船が着いたぞ」。そんな声がすると、半裸の作業員は次々に船に乗りこみます。石炭が入った袋を肩に担ぎ、荷揚げします。荒々しい風景の中、ひときわ大きな声で、真っ黒になって汗を流す男がいました。大声で指示を出しているので、リーダーらしい。誰よりも動きは機敏で目立っていた。太い眉が印象的です。

その姿を事務所の窓越しに見ていたのは、渋沢栄一です。ある日、部下に「首に手拭いを蒔き、シャツ一枚で荷を運んでいる男は誰だ」と聞きました。

「大塚屋です」。「店主自ら、汗を流しているようだな。大塚屋に会ってゆっくり話をしたい」。渋沢はつぶやいた。

その部下は船着き場にまで下り、渋沢の意向を総一郎に伝えました。

「大塚屋さん。渋沢がお話したいと言っています」思いもよらない返事が返ってきた。

「私は昼間、一分一秒も惜しんで働いています。暇な時間は全くありません。昼に会うのは勘弁してほしいのです」。

「あの、渋沢栄一ですよ。あなた知らないのですか」

「知っていますよ。渋沢さんでしょう。王子製紙の社長さんらしいが、どんな偉い人でも、私にとっては仕事が第一です。こっちは忙しいのです。邪魔、邪魔。空いているのは夜だけです」。総一郎は終始、ぶっきらぼうでした。

渋沢栄一は既に経済御所。その部下は、その誘いを断る男にとまどいながら新鮮に感じました。「わかりました。大塚屋さん、渋沢にはその旨お伝えします」。

「無愛想な言い方でしたが、私は好感が持てました」。部下が報告すると、渋沢はますます総一郎に興味を持ちました

「俺と会うより、仕事をするのが大事というのは面白い男じゃ。日本を近代国家にするには、志を持った勤勉な商売人が重要だ。夜でもいいから仕事の悩みなんかあれば、来るように伝えてくれ」。

それから数日後の午後10時。総一郎は渋沢邸の前に立ち、門を叩きました。出てきたのは家政婦です。「大塚屋です。渋沢さんに会いに参りました」。

「旦那様はお休みになられました。今日は勘弁していただけないでしょうか」。戸惑う中。

「夜に来いと言ったから来たんです。それでは約束が違うじゃないですか。私にとって夜は11時過ぎからです。10時は宵の口ですと、渋沢さんに伝えてください。天下の渋沢栄一が嘘をついたのですか」。

総一郎が夜中に大きな声を張り上げ、家政婦は困っていました。玄関が何やら騒がしい。寝床についたばかりの渋沢は起き上がり、着替えして玄関にまで出てきました。

「どうも失礼しました。それにしてもこの時間の訪問。あなたは、噂以上に行動力がありますね。結構なことですな」と笑い飛ばした。そして総一郎を洋風の応接間に招き入れた。2人はお茶を飲みながら話し込んだ。

「きみにとっては、今はまだ宵の口なのかい。いったいいつ寝るのですか」

「午前零時に寝て、4時には起きます」

「4時間しか寝ないのか」

「それで十分です。人間は4時間以上寝ると、バカになります」。

渋沢は別れ際に「あなたは腕で飯を食べるように仕事をなさっていますが、それをこれからも続けてください。偉くなると、自分が動かずに部下に指示ばかりしている人が多いのですが、上に立っても、自ら行動することが大事です」と言いました。

総一郎は感心しました。「腕で飯を食べる」いい言葉だ。どんなに偉くなっても、自分で働こう。汗をかいて働くことこそ、俺の生き甲斐だ。その後、渋沢は総一郎にとって事業拡大の後ろ盾となりました。

(⑥につづく。

トップ写真:渋沢栄一(右)1915年ごろ

出典:Photo by Buyenlarge/Getty Images

© 株式会社安倍宏行