捨て子だった女性が、無戸籍のまま過ごした70年 やっと手に入れた「家族」との日々も、死後は身元不明の無縁仏に

橿本芳江さん

 今年3月、ある女性が、身元不明で引き取り手のいない遺体「行旅死亡人」として官報に載った。女性の名は橿本芳江(かしもと・よしえ)さん。氏名や住所があったが、それにもかかわらずに身元不明と扱われたのには訳があった。橿本さんは「無戸籍」だったのだ。
 なぜ無戸籍だったのか? 調べると、彼女は戦後、国鉄の駅に捨てられていたところを保護された孤児だったことが分かった。晩年は兵庫県の社会福祉法人が支援していたことも分かり、私は法人側と連絡を取って6月、指定された神戸市西区の住所へ向かった。着いてみると、そこは天理教の教会だった。(共同通信=武田惇志)

橿本芳江さんの思い出を語る門口守子さん(左)と義娘の幸代さん(右)(6月1日撮影、神戸市西区)

 ▽駅の子
 二階建ての教会から出迎えてくれたのは、「社会福祉法人まほろば」(兵庫県三木市)常務理事の門口守子さん(83)と事務局長の中川敬悟さん(60)だ。天理教信者でもある2人は、教会で生活していた晩年の橿本さんを見守り、支援してきた。
 橿本さんが以前に暮らした施設から、門口さんらに引き継がれた記録などによると、橿本さんは1953年5月、国鉄神戸駅(現在のJR神戸駅)で、生後間もなくの捨て子として見つかり、保護された。両親が誰なのか、どういう背景があって放置されていたのかは全く分かっていない。

  「戦争が終わって8年しかたっていない時ですから、戦災による貧困など何かしら事情を抱えていたのでしょうね」と中川さんは推測する。本人の名前も、記録にあった1953年3月1日という生年月日も、保護した行政が設定したのか、両親が放置した際に何かしらの情報を残していったのかどうかも不明だ。

 橿本さんが見つかった1953年当時の神戸駅は、どんな様子だったのだろうか。気になって神戸市立中央図書館に尋ねると、1957年発行の「神戸駅史」(神戸駅編、非売品)という書籍があると教えてくれた。
 書籍によると、その年、神戸駅はまだ戦後の混沌の渦中にあった。駅南西の鉄道用地にはバラック小屋が並んでおり「一つの部落を形成し、クズ問屋とか日雇人夫とかの貧民達が、地代の催促もないままに、世帯数は六十五程であつた」という。駅側が立ち退き警告を発し、バラック側が抵抗する一幕もあったようだ。また「浮浪者取締や、年中を通じてのホームにおける闇米取締等の問題があつた」とも記されていた。

橿本さんが暮らし、亡くなった教会の部屋を紹介する中川敬悟さん(6月1日撮影、神戸市西区)

 ▽施設を転々
 1953年に神戸駅で保護された橿本さんは、真生乳児院(神戸市中央区)に預けられた。門口さんらによると、成長の過程で知的障害があることが判明したようだという。
 1983年に神戸市の職員が書いたとおぼしき「身上調書」によると、橿本さんは市立神出中(神戸市西区)の「特殊学級」(現在の特別支援学級)を卒業している。

橿本芳江さんが昭和28(1953)年5月に保護されたことを示す「身上調書」の一文

 無戸籍のまま、どのような経緯で中学に通えていたかは分からない。25歳だった1978年末には、精神科専門病院の関西青少年サナトリューム(神戸市西区)に入院した。「院内では特に問題なし。日常的なことは自立」と現況欄にはあり、「まじめで質問に対してわからなければ聞き直すと言うように課題に取り組む姿勢が伺える。投薬を続ける必要があり、施設入所としたい」との所見も記されていた。
 橿本さんは約4年後の1983年6月、障害者支援施設の三木精愛園(兵庫県三木市)に入園。しばらくそこで暮らしたが、施設側からの依頼があり、橿本さんが36歳だった90年2月、知的障害者が共同生活する場となっていた門口さんの教会で引き取ることになった。それから2023年2月に亡くなるまでの丸33年間、橿本さんは教会で暮らし続けた。

還暦をお祝いされた橿本芳江さん

 ▽いい人生が送れたんじゃないか
 ところでなぜ、天理教の教会が、障害者らが家族のように共同生活する場となっているのか。
 話は、門口さんが長男を出産した1961年にさかのぼる。長男に種痘(天然痘の予防接種)を接種させたところ高熱を出し、危険な状態になった。医師からは、たとえ命が助かっても障害が残る可能性を伝えられたという。門口さん夫婦は神に祈るしかないと仕事を辞め、以前から信仰していた天理教の教会を建てた。
 その後、長男は無事に回復し、危惧したような後遺障害も残らなかったため、「長男の養育が終わったら、困っている人のお世話をしよう」と門口さんは心に決めたという。
 それから約20年後、パニック障害の自傷行為で片目を潰してしまった男性を連れた父親が「どの施設も怖がって預かってもらえない、助けてほしい」とやってきた。引き取って世話をしているうちに、「あの教会ならどんな人でも支援してくれる」との評判が広がり、共同生活を希望する家庭が増え、教会の居住スペースもどんどん増築されていった。通所施設を望む声も出て、1985年に三木市に社会福祉法人まほろばを設立することにもなった。現在、教会では約50人が共同生活している。

橿本芳江さんが毎日食事した教会の食堂(6月1日撮影、神戸市西区)

 橿本さんが教会に来た当初は、家庭生活の経験がなく、精神科病院で長期間入院していた過去のためか、何かと言えば病院で生活したがった。そのため、10年ほどは精神科の神出病院(神戸市西区)に入院しつつ、たまに教会に帰る生活を続けていたという。門口守子さんの義娘で、共に教会で暮らした幸代さん(60)は、こう振り返る。「手持ちのお金が全部なくなって入院できなくなってから、落ち着いて教会にいられるようになりましたね」。日中は事業所に送迎してもらい、ラスクの袋詰め作業に従事した。

 橿本さんの好物はジュースとコーヒーで、よくねだっていたという。教会の行事で旅行に行くことも楽しみにしていた。「芳江ちゃんは、たまに仕事を休みがちになるときもあったんですが、行事の前は休んだら連れて行ってもらえへんと思って一生懸命、仕事を頑張るようなおちゃめな一面がありましたね」と、「まほろば」事務局長の中川さんも思い出を語る。口数少ないものの、周囲からは好かれていた。門口さんのことは母親のように感じており、時々、お風呂で体を洗ってもらうこともあったという。中川さんは言う。
 「身びいきかもしれませんが、ここにいたことで、いい人生が送れたんじゃないかって思います」

行事で「カップヌードルミュージアム 大阪池田」(大阪府池田市)を訪れた橿本芳江さん

 ▽無縁仏に
 今年2月10日、昼食の時間になっても橿本さんが部屋から出てこず、不審に思った同居人が様子を見に行くと、すでに事切れていた。外は10度以下の肌寒さで、時々冷たい雨が降った日だった。死因は心不全とみられるという診断だった。
 駆けつけた警察官から「本籍はどこですか」と尋ねられ、門口さんたちが改めて過去の記録を調べると、どこにも記載がなかったことに気づいた。そこで警察が調査することになったが、結局「橿本芳江」という人物の戸籍は見つからず、身元不明の「行旅死亡人」として官報に掲載されることになった。死後、銀行口座などに400万円近い貯金が残されたが、ほとんどが障害年金だという。今後、国庫に編入される見込みだ。

橿本芳江さんを「行旅死亡人」として掲載した官報(2023年3月22日)

 行旅死亡人として行政の手で火葬されてしまったら、遺骨は原則、相続人となった親族しか引き取ることができない。橿本さんと暮らした人々は誰も、彼女が無戸籍だった事実を把握していなかった。
 「芳江ちゃんは30年以上、一緒に暮らした家族の一員です。生前にお墓も作ってあるので、せめて分骨だけでもしていただけないでしょうか」と幸代さんは市の職員に交渉したが、「法規で決まっており、できません」との返答だった。仕方なく、出棺までの間に、駆けつけた事業所の職員らとひつぎを囲んで別れを惜しんだという。
 市の規定では、遺骨は5年間、市立舞子墓園(神戸市垂水区)に納められ、その後は公営霊園に納骨されることになっている。市の担当者は説明する。
 「神戸市の内規では、相続人がいないとき、正当な請求者と認められる場合なら遺骨をお渡ししても構わないとなっています。ですが現実問題として、官報に行旅死亡人として公告を出している以上、相続人が名乗りでてくる可能性も完全にゼロとは言い切れませんから、容易にお渡しはできないのです」
 門口守子さんは、行政が法規に厳格に従う必要を理解しつつ、それでも「むごいな」と感じざるを得なかったと言う。

橿本さんが死後に納められる予定だった合葬墓(6月1日撮影、神戸市西区)

 門口さんらが用意していた墓は、教会から車で数分ほどの場所にあった。そこではすでに、教会で一緒に暮らした仲間らが合葬されているが、橿本芳江さんの遺骨が共に納められる見込みはない。戦後の捨て子は、家族の姿を再び見失ったままだ。

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