「あいつ、何するかわかんないな」 痴漢“容疑者”の「勾留請求」に検察官が踏み切った“決定打”

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新型コロナの行動制限解除とともに、痴漢の検挙件数が増加傾向にあります。警察庁が今年5月に公表した調査結果によれば、2022年中の痴漢の検挙件数は2233件と、3年ぶりに2000件台となりました(2019年は2789件、2020年は1915件、2021年は1931件)。

痴漢で逮捕された後、容疑者(法律用語では「被疑者」)にはどのようなことが待ち受けているのでしょうか。一方で、痴漢をめぐる冤罪事件が話題になることもありますが、その背景・課題として指摘される取り調べや捜査では、どのようなことが行われているのでしょうか。この記事では、被害者、弁護士、検察官それぞれの視点から「小説」の形式で見ていきます。

第6回目では、被疑者の取り調べを終えた検察官・江藤恭介が「自分の判断は被疑者の人生を狂わせる可能性もある」と悩みながらも、ある“決定打”によって、勾留請求を決意するまでを紹介します。

※この記事は実際に弁護士として活躍する筆者による書籍『痴漢を弁護する理由』(日本評論社)より一部抜粋・構成。

【#5】「黙秘します」無罪主張をやめた痴漢事件の“容疑者” 「自白させたいわけでは…」ある検察官の本音

やっていないならそういってもらえれば…

「今日は特に何も話していただけないということでいいですか」

「……黙秘します」

「それでは今日はこれで終わりです。また呼ぶことがあるかもしれません」

記録を閉じて、大林に今日の手続の終わりを告げる。思わず、こう付け加えた。

「あなたがどういう主張なのか、どういう言い分なのか、私としても聞きたいと思っています。やっていないならそういってもらえれば、それが本当かどうかきちんと私も捜査をして判断したいと思っています。話してもらえないのなら、被害者の言い分だけを前提にせざるを得ませんよ。きちんとあなたの話を聞いて、ちゃんと真実を見極めて……」

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思いが言葉となってあふれてくる。声が大きくなる。そのとき、大久保(編注:検察官・江藤恭介を補佐する検察事務官の女性)の視線を感じ、はっと我に返った。

真実発見のための説得を、黙秘権の妨害だとかいってクレームをつけてくる弁護士もいるのだ。そうなったらいちいち上司に報告しなければならない規則になっている。場合によっては、違法な取調べだとか主張されて、話がややこしくなることもある。ヒートアップしてもしかたないのに気持ちが高ぶってしまう僕の悪い癖を、大久保はよくわかっていた。

「終わりです」

大林の後ろの椅子に座っている警察官に指示して、退室を促す。

手錠と腰縄が施され、警察官に連れられて大林は部屋をとぼとぼと後にしていった。

僕の判断は、被疑者の人生を狂わせる可能性もある

「なんか真面目そうな人でしたね」

部屋の扉が閉まるなり、大久保が話しかけてきた。僕も全く同じ印象だった。

痴漢事件では、こういうまじめなタイプの被疑者は少なくない。強盗事件とか、恐喝事件とか、そういうタイプの罪の被疑者とは違う。黙秘も、おそらく、昨日あたりに接見した弁護人と相談して決めたのだろう。弁護人に言われて、まじめに、黙秘権を行使しようとしていたのがよくわかった。

「しゃべってくれないなら、それ前提で進めるしかないですかねー」

「そうだねえ」

僕が適当に相槌を打っていると、大久保はさらに続けた。

「でも、ずっと黙ってた割に、話し出したのは被疑者のほうだったんですよねー。黙秘しますって。なんか、直感ですけど、沈黙に耐えられなかったんじゃないですか。本当は、話をしたいタイプの人なんじゃないかなーと思いましたよ。話したいことはあるけど、話せなくて、でも弁護士に言われているから黙秘しなきゃいけない! みたいな。なんか、表情とかも、それで怖がっていたのかも」

いつもの調子だが、もっともらしい感想だ。そんなこともあるかもしれないなと思いつつ、僕は無意識に席を立った。

マグカップを持って、部屋にあるティーメーカーのほうに歩いていく。

茶葉の入ったカプセルを入れて、ボタンを押すと自動で熱いお茶が作れる最新式のやつだ。緑茶、紅茶、様々なフレーバーが選べる。最近のマイブームは、マスカットの香りがする紅茶だ。僕は、立ったまま、メーカーのボタンを押す。

取調べが終わった後に熱いお茶を飲むのは、いつのまにか僕の癖になっていた。

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一呼吸おいて、事件に思いをはせる。これからの僕の判断は、もしかしたら被疑者の人生を狂わせる可能性もあるのだ。今僕が求められているのは、被疑者をさらに身体拘束するかどうかである。いや、拘束するかどうかを判断するのは裁判所なのだが、僕が勾留を請求しなければ、被疑者は今日釈放される。しかし、拘束を請求して裁判所が認めれば、被疑者は10日間、あるいは場合によっては20日間拘束されることになる。この身体拘束を「勾留」といい、僕が行うのは「勾留請求」だ。

10日間という時間は、被疑者にとっては長い。致命的な時間になることもある。身元がしっかりしている人で、釈放しても証拠隠滅されたりするおそれがなければ、生活への影響を考慮して釈放することもある。

今回の被疑者も、4年制大学出身の広告会社勤務の若者だ。学歴や勤務先で差別をするつもりはないが、彼が勾留されたらそれなりに大変なことになるだろうということは、会社勤めをしたことがない僕でもわかるつもりだ。

でも。考えなければいけないのは、被疑者の事情ばっかりじゃない。

被疑者は若くて独身の一人暮らしだ。行方をくらますことなんてわけもない。それに、被疑者と被害者の家が近いのも気になる。公共の交通機関とは言ったって、偶然に遭遇する可能性だってある。確か、被害者も被疑者の顔を見たことがあると言っていたような……。

と、その時。

ガー、ガーッ。

検察官室のFAX受信機が紙を排出する音が僕の思考を中断させた。

勾留請求の“決定打”

「検事、弁護人から意見書です」

そういって、大久保事務官がFAX送付された意見書を持ってきた。見る前から中身はだいたいわかる。つまり、この意見書は、「被疑者を勾留請求してくれるな」というものだろう。弁護人も、こうした痴漢事件での勾留が被疑者の人生を左右することはよくわかっている。僕たち検察官とは違った立場だが、被疑者のもとへ接見に行って、書類を整えて今日の午前中に間に合わせる仕事には感服させられる。

ただ、中身は別の話だ。たくさんの弁護人が勘違いしているが、僕だって弁護人が考えることくらいわかっている。

「想定内の内容だな」

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被疑者は新卒で会社があり逃げるはずはない、被害者が見ず知らずの女性であり、接触するはずがない……弁護人の意見の内容は、すでに僕自身もわかっていることばかりだ。母親の身元引受書が添付され、きちんと出頭するから釈放してくれという。また、被疑者は実家から会社に通うことで、今回乗っていた路線には乗車しないという。しかし、被疑者がそう言っているだけなのだ。一度釈放して、それを誰が保証してくれるというのか。

弁護人の意見書を斜め読みしてデスクのわきに置く。きちんと読むべきは、「意見」じゃない。「証拠」であり「事実」なのだ。

事件記録をもう一度最初から丁寧に読んでみることにした。「証拠」と「事実」。パラパラと記録をめくり、復習する。すると、思わず一つの書類の記載に目線が吸い込まれた。

「こいつ、直後に線路に逃げてるのか……」

さっきは見落としていた記載だった。警察が大林を逮捕した流れを記載した「現行犯人逮捕手続書」には、被疑者が逮捕後、被害者の手を振り払って線路に逃げたところを取り押さえられたという記載があった。

──事件を否認している現状で、もし被害者と遭遇したら?──

線路に逃げたのはパニックになったからかもしれない。でも、そんな被疑者が、もし被害者と偶然に遭遇したら?

被疑者の顔が頭に浮かぶ。口を真一文字に結んで、おびえた表情でこちらを見ている顔。

「あいつ、何するかわかんないな……」

マスカットの香りを楽しむ暇もなく、紅茶を一気に飲み干して、パソコンを叩く。もう慣れたもんだ。上司に決裁をもらい、事務方に電話を入れる。

「被疑者大林、勾留請求です」

翌日10月5日。裁判所から、大林が勾留されたとの連絡が届いた。

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