「作曲家の意図通りに演奏しなければならない」は正しいのか【榎政則の音楽のドアをノックしよう♪】

クラシックピアノを習ったことのある人の「あるある」といえば、 「作曲家の意図を汲み取って弾きなさい!」 と怒られることではないでしょうか。あるいは、少し皮肉的な口調で 「勝手に作曲しないで」 と言われることがあるかもしれません。

作曲家の意図とは一体何なのでしょうか。そして、それを守る必要はあるのでしょうか。今回は様々な角度から「作曲家の意図通りに演奏しなければならない」のかを考えてみましょう。

「間違った演奏」は存在するのか

個性は音楽にとってとても重要な要素です。だからこそ、一つの曲に対して、多くの音楽家が録音を残したり、演奏会が開かれたりするわけです。しかし、どんな演奏でも「個性」といって容認するのは少し乱暴といえるでしょう。そうでなければ、曲を練習する必要も無くなってしまいますし、コンクールを開く意味もありませんね。

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音が明らかに間違っていたり、リズムが崩れていれば、それは「間違った演奏」ということができるでしょう。すくなくとも、演奏者が「こう弾きたい」と思った通りに演奏することができなければ、演奏者からすると「間違った演奏」に聞こえます。しかし、練習を重ね、演奏者の想定通りに弾くことができるようになったとしたら、それは絶対に「間違った演奏」にはならないのでしょうか。

結論から言うと、「間違った演奏」になることがあります。それはたとえば、伝統的なスタイルから大きく外れているときです。 たとえばマーチなのに、拍が分かりにくい演奏をしたら、たとえ「あえて奇をてらった演奏」だとしても不自然に聞こえるはずです。

一方で、賛否両論を巻き起こしながら、伝統的なスタイルから外れた演奏が認められることがあります。有名なのはカナダの伝説的なピアニスト、グレン・グールドの演奏です。

グレン・グールドは特にバッハの演奏に関して革新的な演奏スタイルを世に示しました。コンサートで演奏することを止め、録音のみを演奏活動の場とした特異なピアニストです。彼の演奏は、(伝統的な演奏より)極端に速すぎたり遅すぎたりすることも珍しくありません。

グレン・グールドの演奏に否定的な意見が多いのも確かですが、これだけ世に受け入れられていることを考えると、「伝統的な演奏」のみが正しいわけではないようです。

楽譜の歴史

楽譜は音楽を記録して人に伝えるための手段です。

楽譜の歴史は「音が前の音より高いか低いか」「音が長いか短いか」「音にアクセントがあるか」のみを示す「ネウマ譜」から始まります。これは800年頃の話です。このネウマ譜では、音楽を正確に再現することができません。前の音より高いことがわかっても、どのくらい高いかが分からなければ、正確には演奏できないのです。 ネウマ譜は、ある程度曲を知っていることが前提で、その曲を思い出すためのヒントになる程度です。

それから、1100年頃に音の高さを、平行に書かれた何本かの線の上に書いて示すようになりました。これを「譜線ネウマ」といい、現在の楽譜の原型となります。しかし音の高さがわかっても、音の長さが分からなければ、正確に再現できませんし、アンサンブルもしづらくなってしまいます。

そして、1250年頃「定量記譜法」が現れ、リズムが正確に記されるようになります。これでようやく「音の高さ」と「リズム」が正確に指示できるようになりました。

しかし、まだ音楽を再現することはできません。「強弱」など音の表現の問題があるからです。例えば二回同じ短い旋律を繰り返すとき、それぞれ強弱を変えることでお洒落な演奏にすることができます。しかし、1回目を強くするのか、または2回目を強くするのか、どちらのほうが良いかを見極めることは難しく、人によって全く異なる演奏になる可能性があります。

そこで、1600年頃から、「piano(弱く)」「f(強く)」という記号を使って、強弱も表すようになりました。こうなってくると、作曲者は自分の意図した音楽を正確に伝えるために、楽譜に大量の記号を書き込むようになります。「スタッカート」「スラー」「アクセント」「テヌート」といったアーティキュレーション(音の繋げ方)の記号、「クレッシェンド」「ディミヌエンド」といった強弱の変化の付け方の記号、「プレスト」「アレグロ」といったテンポを表す記号等です。

1900年頃の楽譜の多くは、どの音符を見ても大体何らかの記号が付いている、といえるほどです。記号がついていない音符は「記号がついていない音」という表現をする必要があるほどになりました。

さらに1950年頃音楽にコンピューターが導入されるようになると、全ての要素を正確に指示する必要が出てきます。これにより、意図的にランダム性を入れない限りは毎回同じ音楽になりました。さらに、この考えは人間の演奏にも取り入れられ、「音楽の完全再現」を目指す楽譜も登場します。

このような楽譜の発展の背景には、作曲家が「自分の音楽を正確に再現してほしい」という思いから成り立っているようです。西洋音楽は「再現芸術」だと呼ばれるようにまでなりました。

「演奏解釈」とは

「再現芸術」という視点に立ってみれば、1600~1950年頃に書かれた楽譜は指示がまだ少なく、多数の演奏の可能性の余地があります。「この音楽なら1拍目が強くて当然だろう」「この音楽ならこの旋律はすこし時間をとって歌うべきだ」というような、楽譜に書かれていない部分を明確にして演奏する一連の流れのことを「演奏解釈」と呼びます。練習でどうにかなる部分を除けば、「演奏解釈」こそが演奏家の個性であり、西洋音楽の演奏家にとっての本質となるかもしれません。

楽譜の歴史をみると、それは「いかに正確に記録するか」の歴史であり、「楽譜は作曲家が作ったものであり、指示が無いのは作曲家が何らかの都合で明確化できなかっただけであって、演奏家は作曲家の意図を正確に汲み取らなければならない」という価値観を形成してきたといえるでしょう。

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そのために、1つの曲を演奏するためにもその曲が生まれた背景となる作曲家の人生を調べ、音楽史を勉強し、舞踊・美術・建築・政治・宗教・科学技術・民俗文化など、当時のことを徹底的に調査して音楽の解釈を考えていくのです。

日本は非常に優れた西洋音楽の演奏家を数多く輩出していますが、それでも大勢の音楽学生がヨーロッパに留学するのも、ヨーロッパの空気感や様々な文化を肌で感じなければ、正確な「演奏解釈」にたどり着けないという思いがあるからでしょう。

自作品が演奏される作曲家の感覚

今までは、演奏家からみた楽曲の話をしてきましたが、作曲家からの視点も考えてみましょう。筆者は現在ではピアニストとしての活動のほうが多いですが、もともと作曲家を目指しており、現在でも作曲を続けています。私の個人的な経験も交えながらお話したいと思います。

作曲家がリハーサルに立ち会ったとき、「その演奏ではいけない、このように変えて欲しい」と指示するのが普通ですし、リハーサルに立ち会わないで演奏会で自分の曲を聴いたときに、「こんな曲を書いたつもりではなかった」と思うことはよくあります。

私は自分の作品は全ての音を覚えていますし、全ての音に必然性があります。演奏されたときは、どんなに細かい音のミスや、わずかなリズムの乱れも恐ろしいほど鋭敏に全て聴き取ることができます。そのため、演奏会で自分の曲を聞くときは、自分が演奏する以上に緊張するものです。

しかし一方で、卓越した演奏家が、作品を徹底的に読み込んだ場合、自分の想像を遥かに超えた素晴らしい演奏をしてくれる場合があります。この時こそ「作曲家冥利に尽きる」と言える瞬間で、この喜びのために作曲をしてるといっても良いほどです。

作曲活動には自己表現という側面は間違いなく存在すると思いますが、一方で自分の曲に自分の知らない魅力を見出してもらえることがあるからこそ、作曲は楽しいのだと思います。

作曲家と曲は同一の人格を持つのか

作曲家と楽曲は独立した存在なのでしょうか、それとも同一の人格を持つのでしょうか。 極端な話、作曲家が罪を犯したとき、楽曲まで非難されるべきなのでしょうか。これは音楽に限らず、デザイン・建築・映画など、様々な分野でしばしば問題になり、皆様も一度はニュースなどでこの問題に触れたことがあるのではないでしょうか。

作品によって制作者に収入が入る以上、ある制作者は作品にある程度の責任を負う義務がありますし、作品を扱う人(たとえば演奏家)にとっても制作者を尊重する義務が生じます。

この問題は非常に繊細で、作曲家の個人的な感情として「この人・この団体に演奏してほしくない」「この場面では演奏してほしくない」「このような解釈で演奏してほしくない」ということはよくあります。実際に、コマーシャルなどで楽曲が使用された場合、その企業と楽曲があまりに強く結びついてしまって、楽曲自体に強固な印象が付随してしまうことがあります。それが作曲家の意図しないところであれば、一般的な感覚としても「作曲家の意図通りに演奏しなければならない」という結論になるでしょう。

しかし、これは極端な例であり、作品と制作者は別の人格として扱うほうが、芸術界にとってはよほど発展があります。制作者のコントロール下でしか作品を扱えないとすれば、その作品自体の発展性がなくなり、時間とともに忘れられてしまうでしょう。作曲家も、「子離れ」ならぬ「自作曲離れ」が必要なのです。

クラシック音楽が今まで愛されているのは、演奏解釈に自由度があり、また楽曲が作曲家の手を離れて多くの演奏家の演奏を聞くことができ、自分自身で演奏して楽しむことができるからです。

これはクラシック音楽に限らず、演歌も映画音楽もポップスも同じです。たとえ上手く歌うことができなかったとしても、カラオケで自分の声で歌うことができるから、その楽曲は残り続けるのです。また、様々なアーティストがカヴァーをするから、今でも新鮮な気持ちで曲を聴くことができるのです。

提案としての演奏解釈

あなたが楽曲を練習していて、面白い演奏解釈を思いついたなら、ぜひその演奏解釈を掘り下げ、自分の納得できる形で披露していくと良いでしょう。

その面白い演奏解釈が、伝統的な解釈よりも優れていると多くの人が認められるようになるためには、それこそグレン・グールドのような天才的な演奏技術とアイディアが無ければ難しいです。しかし、あなた自身の中にあるアイディアや、それを受け取った人の反応が、過去に作られた作品が現代に生き続けている証となります。

演奏技術の有無にかかわらず、あなた自身の感性で楽曲と向き合うことが、何よりも大切なことです。レッスンでは怒られたり、コンクールでは減点の対象となるかもしれませんが、その反発する反応も大切にして、新しい音楽を切り拓いていきましょう。(作曲家、即興演奏家・榎政則)

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 榎政則(えのき・まさのり) 作曲家、即興演奏家。麻布高校を卒業後、東京藝大作曲科を経てフランスに留学。パリ国立高等音楽院音楽書法科修士課程を卒業後、鍵盤即興科修士課程を首席で卒業。2016年よりパリの主要文化施設であるシネマテーク・フランセーズなどで無声映画の伴奏員を務める。現在は日本でフォニム・ミュージックのピアノ講座の講師を務めるほか、作曲家・即興演奏家として幅広く活動。

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