大河『家康』本能寺の変 最近注目の「四国原因説」真相は 政策変更が明智光秀に打撃? 識者が語る

NHK大河ドラマ「どうする家康」第28話においては、本能寺の変が描かれました。徳川家康(松本潤)の手の者が織田信長(岡田准一)を本能寺に急襲する「家康黒幕説」を採用するかと思いきや、土壇場で、それが覆され、史実通り、明智光秀(酒向芳)が信長を殺すという展開となりました。

本能寺の変は、当時の政治情勢を一変させた一大事件でありましたので、光秀がなぜ謀反を起こし、信長を殺害したのかについては、これまで、様々な説が唱えられてきました。怨恨説から光秀ノイローゼ説まで、幅広いのですが、最近、注目を集めているのが「四国征伐回避説」(四国説)と呼ばれるものです。当時、四国を席巻する勢いを見せていたのが、土佐国の戦国大名であった長宗我部元親でした。

元親が土佐国を統一した頃(1575年)には、信長と元親の関係は良好であり、信長は元親に四国を自由に切り取る(平定すること)のお墨付きを与えていました。ところが、天正9年(1581)頃から、信長と元親の関係は、険悪になっていきます。信長は、阿波の三好氏に肩入れし、長宗我部を冷遇し始めたのです。

最初は、四国は切り取り次第などと言っていたのに、この頃には、伊予と讃岐を召し上げると、信長が言い出したものですから、元親が怒るのも頷けます。長宗我部氏の勢力が強まることを警戒したことや、同氏の利用価値が低下したことが、信長が同氏を邪険にした理由と考えられます。信長は、明智光秀を使い、元親を服属させようとしますが、元親はなかなか応じようとはしませんでした。

よって、信長は、三男・織田信孝を四国に派遣し、長宗我部氏を征伐しようとします。「信長の四国政策の転換は、それまで、長宗我部氏と交渉してきた光秀の面目を潰すものであり、織田家中における光秀の立場を低下させるものだったのではないか」ーそれが要因となって、光秀は信長に謀反したのではないかというのが「四国説」です。信長が本能寺で死ななければ、織田軍による四国征伐が行われていた可能性も高いです。

興味深い説ではあるのですが、しかし、四国政策の転換が、光秀に打撃を与えるものであったのかは、筆者としては疑問に感じるところではあります。本能寺の変直前においても、信長は光秀に、安土における家康饗応を任せたり、中国出兵を命じたりして「重用」しています。本能寺の変の年(1582年)に、(四国問題が要因となって)光秀が左遷されたり、冷遇されたというような兆候があるならば「四国説」が信憑性を増してきますが、現時点においては、筆者は懐疑的です。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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